鎌倉幕府創設時の権力争いを描き、多くの視聴者から支持される大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。物語は「13人の合議制」成立が目前に迫ってきたが、当時の関係者はどのような胸中で政権の改変を捉えていたのか。

 ここでは、東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏の著書『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書)の一部を抜粋。頼家の最側近であったはずの比企能員と梶原景時が、将軍権力を抑える「13人の合議制」に加わった背景について紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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頼朝が最も信頼した比企氏

 北条氏といえば、頼朝の正室、政子の実家ということもあり、頼朝が最も信頼を寄せ、後事を託した最側近と思われている方も多いかもしれません。しかし、それは『吾妻鏡』によって巧妙に作られたイメージの部分が少なくないのです。

 頼朝、頼家2代の将軍から実力者として重用された人物としては、梶原景時(?~1200)が挙げられます。そして、頼朝が最も信頼を寄せた一族は比企氏でした。先回りして言えば、この梶原、比企の両氏を謀略によって滅ぼすことで、北条時政は幕府の主導権を握ったのです。

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 では、鎌倉幕府のなかでも重臣中の重臣だった比企氏について説明しましょう。

 後世のイメージに反して、鎌倉時代は女性の地位が高い時代でした。それを端的にあらわすのが、母、乳母の発言力が非常に大きいことです。頼朝が助けられたのも、清盛の継母、池禅尼の嘆願によるものでした。

頼朝を支えた3人の娘婿

 確認されているだけでも頼朝には4人の乳母がいましたが、その1人が武蔵国の有力武士比企氏の女性、比企尼でした。頼朝は彼女にとても懐きました。比企尼が偉かったのは、平家に追われる境遇となってからも頼朝を以前と変わらず可愛がり、支援し続けたところにあります。頼朝少年が伊豆国に流されると、それまで京都に暮らしていた比企尼は嫁ぎ先の武蔵国の比企郡に戻りました。そこから彼女は、頼朝のもとに生活物資を送り続けたのです。

 これは、単なる仕送りというにはあまりに危険な行為でした。当時は平家の全盛期です。平家の敵である源氏の御曹司を支えているということで、下手をすると謀反人だと疑われて殺されることもあり得るのです。