頼家が家督を継いで3カ月後の建久10(1199)年4月、幕府は13人の有力者による合議制を導入します。
〈様々な訴訟については、羽林(源頼家)が直に決断されることを停止し、今後は大小の事については〉13人が話し合って処置すること。〈その他の者が理由もなく訴訟のことを(頼家に)取り次いではならない、と定められた〉(『吾妻鏡』建久10年4月12日)
これは権力の本質を見る上で非常に面白いので、詳しく見ていくことにしましょう。
時政ら13人は権力を握りましたが、新しい政権を作るのではなく、将軍である頼家の存在は否定しませんでした。つまり、武家のトップであることを辞めさせはしなかったのです。
一方で、頼家は政治への関与が今までのようにはできなくなります。土地争いの裁定や飢饉の対策といった政治行政を、頼家の手から遠ざけるようなシステムを生んだのです。では、頼家は何をしていたのかといえば、土地の安堵をしたときの保障や、代替わりした御家人が「父に代わり私がお仕えすることになりました」と挨拶にくれば「よろしく頼むぞ」と声をかけるようなことが主な仕事になります。主従関係に根差した権威付けが、頼家の仕事になったわけです。つまり、「元首としての将軍」から「象徴としての将軍」になってしまったのです。その意味では、この合議制の導入は、一種の政変だと捉えることができるでしょう。
頼家から権力を取り上げた13人の顔ぶれを見ていくと興味深いものが見えてきます。
3つのグループに分け、見えてきたメンバー編成
まず中原親能、大江広元、三善康信、二階堂行政の4人はいずれも文官です。他はすべて御家人で、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元(盛長の甥との説もある)、梶原景時、そして北条時政、北条義時の親子です。
これらのメンバーをグループ分けすると、(1)将軍の手足となって動くべき文官、(2)梶原景時、比企能員など頼家に近い御家人、そして、(3)北条氏らその他の有力御家人、となります。
史料にはこの政変の首謀者は書かれていませんが、北条時政が主導したのは間違いないでしょう。
その理由はこうです。まず文官は、将軍権力を直接支えることがその本質です。王+官僚ですべてを進めるのが、彼らの本来の姿ですから、合議制を導入する必要はありません。
さらに比企氏、梶原氏は頼家の腹心ですから、わざわざ将軍権力を抑える仕組みをつくる必要はありません。