鎌倉幕府創設時の権力争いを描き、今後の展開が注視される大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。物語は日本最初の武家政権成立に向けて進行しているが、当時の武士たちは、実際にはどのように権力の座を巡る駆け引きを繰り広げていたのだろうか。
ここでは、東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏の著書『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書)の一部を抜粋。そもそも源氏と平家はどのようにして権力を築き上げてきたのか。時代背景をもとに、彼らが高い権威を得られた理由について紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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幕府の本質は「頼朝とその仲間たち」
では、まず承久の乱の一方の主役である「鎌倉幕府」とは何かから論じていきましょう。
実は、源頼朝もその家来も、頼朝を将軍に任命した朝廷も、誰一人として「鎌倉幕府」というものが生まれた、とは考えていませんでした。なぜなら、武士が政治を司った体制・政権を一般的に「幕府」と呼ぶようになったのは、明治時代のことだからです。
そもそも「幕府」とは、中国で将軍が戦争の時に拠点とした陣幕を指す言葉でした。頼朝のころに「幕府」といわれていたものがあったとすると、システムではなく頼朝の居館そのものです。
それを室町時代のお坊さんが、「武士の政治体制を表すのにちょうどいい」と漢籍の中から引っ張り出してきたのですが、一般に使われた言葉ではありませんでした。江戸時代になっても、徳川家の支配体制は「柳営」と呼ばれます。今のように使われはじめたのは、ようやく幕末になってからでした。
便宜上、本書でも「鎌倉幕府」を使いますが、一見面倒そうな語釈論議からはじめたのは、そもそも鎌倉時代に、「幕府」というきちんとした政治システムが確立していたわけではなかった、ということが言いたかったのです。
頼朝がつくった鎌倉幕府は、同じ幕府でも、たとえば江戸幕府とはまったく違います。
江戸幕府はいわば完成された世襲官僚組織です。頂点に立つ将軍から領地と位を与えられた家臣たちが、序列にのっとり、それぞれの職掌にあたる。各藩も、やはり将軍に領地をもらった藩主が同様のピラミッド型組織を運営します。
それに対して、頼朝の作った政治体制の実態を一言で言い表すとすると、私が最もぴったりだと考えるのはこれです。「源頼朝とその仲間たち」。こういうと「ふざけるな!」と𠮟られてしまいそうですが、実態はこの通りなのです。