1ページ目から読む
2/4ページ目

土地を守るための安全保障体制

 頼朝を棟梁と仰ぎ、そこに結集することで、自分たちの権益、特に土地の保障(安堵といいます)を得る。これが鎌倉幕府の本質でした。その頼朝による土地の安堵が「御恩」、それに報いるために、頼朝の命令のもと戦うことが「奉公」です。それを受け入れた武士たちは、頼朝の直属の子分(仲間たち)として「御家人」と呼ばれます。

 もし頼朝が安堵した土地を、誰かが理不尽に奪い取ったり、頼朝が決めた土地の境界線を勝手に破ったとします。それを頼朝に訴えると、頼朝が仲間たちを連れて来て、その相手を撃退してくれるのです。逆にいえば、頼朝から「今度、あいつを懲らしめるから、すぐに来い」と言われれば、何があっても駆けつけなければいけません。これが「いざ鎌倉」です。

写真はイメージです ©iStock.com

 鎌倉幕府とは、一言でいえば、この保証人ならぬ保障人・頼朝と主従契約を結んだ仲間たちが、東国に築き上げた安全保障体制なのです。

ADVERTISEMENT

 なぜ、こうした仕組みが必要となったのか? それを説明するには、当時の土地制度をみておく必要があります。土地の問題は、日本史の要ともいうべき大きなテーマですが、ここではできる限り簡潔に、わかりやすく説明したいと思います。

 日本史の教科書などをみると、古代の日本には中国から律令制が導入され、すべての土地は公=天皇のもので、ひとりひとりに口分田を与える代わりに、租庸調などの税を納めさせた、と説明しています。しかし私は、これはおよそ実態とはかけ離れたフィクションだったと考えています。

 土地はすべて天皇のものである「べきだ」、という、朝廷側の理想を示したものです。そもそも朝廷の支配が及ぶ地域は、10世紀になっても百万町歩にも及びませんでした。養老6(722)年に出された「百万町歩開墾計画」がいかに荒唐無稽な絵に描いた餅だったかがわかるでしょう。結局、現実として行なわれていたのは、朝廷が支配している地域から「取れるだけ税を取る」という収奪的な支配だったと考えられます。そこから「逃亡」「浮浪」となる農民が続出するのも当然で、律令制はすぐに行き詰まるわけです。