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2022/07/17

genre : エンタメ, 読書

 残った第三のグループで、ある程度、政治的な力を持っていて、さらなる権力の伸張が望める人物は誰か。そして13人のなかに唯一、親子2人が入っている一族はどこか。そう考えると、おのずと北条氏が浮かび上がってきます。

将軍権力への危機感

 問題はむしろ時政の仕掛けを、なぜその他の有力御家人たちが支持したかという点にあります。

 私は、その理由は、頼家が頼りなかったからではなく、その逆に、将軍の権力が強くなりすぎているという危機感を、有力御家人たちが持ち始めたからではないかと考えます。

 頼朝が鎌倉に拠点を構えた時点では、その権力の源泉はまさに在地領主である御家人たちとのかたい結びつきにありました。だから、頼朝は彼らの意向を受け入れ、京都ではなく関東を基盤として選んだのです。しかし、次第に頼朝の権力が強まり「独裁者」として振舞うようになると、必ずしも頼朝の決断が御家人たちの利益にならない場合も出てきます。その一例が先ほど述べた「大姫入内工作」でしょう。朝廷側と頼朝が直接交渉し、しかも向こうのいいように操られ、土地の安堵までしてしまっている。在地領主たちが望む方向とはかなりズレたものだったことは間違いありません。

©iStock.com

 そして頼家もまた自分の「王」としての力を積極的に行使するタイプでした。先に紹介した土地争いのエピソードは、頼家の決定者として振舞おうとする態度、すなわち「将軍らしさ」をあらわすものと読むことができます。

「御家人による御家人のための政治」の実現に向けて

 強まる「将軍専制体制」に御家人たちが不満を感じても、頼朝にはその不満をぶつけることはできませんでした。それは「頼朝とその仲間たち」である鎌倉幕府そのものへの批判となり、場合によっては自分たちの正当性すら失われてしまうからです。

 そこに登場したのが若い頼家でした。年若く経験の少ない頼家の些細なミスをことさらに否定的に取り上げ、「暗君」のレッテルを貼る。そして「まだまだ若い頼家様には任せられない。そもそも我らが血を流して作り上げた政権だ。頼家様が経験を積むまで我々で仕切ろうではないか」と、最古参の1人である時政が誘えば、有力御家人たちを「確かにそうだな」と思わせることができたのではないでしょうか。

 将軍への権力集中を食い止め、「御家人による御家人のための政治」を実現しよう──。その点で、有力御家人たちの利害は一致した、と私は考えます。

 頼家の最側近であるはずの比企能員と梶原景時が、この13人の合議制に加わっているのは不思議ですが、彼らとしても、その他の有力御家人を敵に回してもやっていけるほど、頼家体制は強くないと判断したのかもしれません。

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