自身の正しさ、誠実さを証明することに命をかける生き様から“鎌倉武士の鑑”と称され、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも主要人物として描かれる畠山重忠。史実では北条時政の策謀により事切れた同氏だが、彼はどのように鎌倉幕府と関わった人物だったのか。

 ここでは東京大学史料編纂所教授を務める本郷和人氏の著書『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文藝春秋)より一部を抜粋。畠山重忠の乱へとつながる歴史の流れをひもとく。(全2回の2回目/前編を読む)

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義時、重忠討伐をためらう

「畠山重忠の乱」は、京都で起ったある事件から始まりました。

 元久元(1204)年11月に、京都にある平賀朝雅の館で宴会が開かれました。その席で、平賀朝雅と畠山重忠の嫡男・重保が口論になりました。畠山重保も時政の孫にあたり、親類同士でした。内容は伝わっていないのでわかりませんが、些細なことだったのでしょう。鎌倉武士同士の喧嘩はいつも取るに足らないことばかりだからです。喧嘩の場は、ひとまず他の出席者のとりなしで収まりました。

 しかし、翌年になって事が大きく動き始めます。朝雅が、義母の牧の方に「あの重保のやつ、許せない」と話し、牧の方はこれを激しく怒って、時政に告げました。そこで時政は畠山親子を誅殺しようと考えます。

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 4月の段階で鎌倉には御家人たちが集められていました。

〈鎌倉の内が騒がしかった。近国の者たちが群参し、武具が整えられているとの風聞があった。また稲毛三郎重成入道はこのところ武蔵国に蟄居していたが、先頃遠州(北条時政)の招きにより従者を率いて参上した。人々がこれを怪しんで、風説があったという〉(『吾妻鏡』元久2年4月11日)

 稲毛重成は、畠山重忠の従兄弟で秩父党の武士でした。時政は、この時点で稲毛を味方に引き込んでいました。稲毛は重忠さえいなくなれば、秩父党の棟梁の座が転がり込んでくると考えたのです。

親の命令だからしぶしぶ…

 そして6月に入って陰謀が具体的な行動に移されます。時政はこの時点ではじめて、息子の義時と北条時房に、重忠の粛清について相談します。

 ここで興味深いのは、『吾妻鏡』に記された義時の反応です。

 義時は「重忠は頼朝公以来、ひたすら忠誠をつくしてきました。今どのような憤りがあって叛逆を企てるでしょうか。比企氏との戦いの折も率先して我らの味方をしてくれました。軽率に誅殺すれば、きっと後悔するでしょう」と父を諫めようとするのです。それを聞いた時政は、言葉を発することなく席を立ちます。

 義時が館に帰ると、牧の方の兄・大岡時親が訪ねてきて、牧の方の言葉を伝えます。