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 さらには3人の娘婿も頼朝を支えました。比企尼の長女は丹後内侍。その夫の安達盛長は前章でも登場した、流刑時代の頼朝の唯一の従者でした。頼朝は、2人の娘を、弟の源範頼の妻とします。源氏と深い縁で結ばれた安達氏は、鎌倉幕府の重鎮としてその後も繁栄します。

比企氏と頼朝一家との結びつきは強くなっていく

 次女・河越尼は、「武蔵随一」と称えられた御家人・河越重頼に嫁ぎました。この2人の間に生まれた娘は、やはり頼朝の命で、義経の正室になっています。ただし不運なことに、河越重頼は義経追討に連座するかたちで頼朝の責めを受け、誅殺されてしまいました。そもそも義経と縁付けたのは頼朝なのですから、私たちから見ると理不尽なようにも思えますが、同時代の武士たちは当然のことと捉えている。この時代、結婚によって生じる結びつきはそれだけ重いものだったのです。たとえばある家が幕府に対して謀反を起こしたら、その家から嫁をもらった武士もいっしょに幕府と戦わなければなりません。娘を誰と結婚させるかは究極の人事でもあり、同盟の締結でもあったのです。ちなみに、重頼なきあとの土地は、頼朝の安堵により、河越尼が切り盛りしました。

 比企尼の三女の夫、伊東祐清も、伊豆時代の頼朝を世話した武士でした。しかし、祐清は主君である平家の側について戦死します。未亡人となった比企尼の三女が、やはり頼朝のとりもちで再婚した相手が、源氏一門の最上席である平賀氏当主の平賀義信(1143~?)だったのです。この平賀氏は承久の乱で非常に重要な役割を果たしますので、覚えておいてください。

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 さらに比企氏と頼朝一家との結びつきは強くなっていきます。

 比企尼の次女と三女が頼朝の嫡男頼家の乳母になったのです。頼家は実母の政子のいる館ではなく、比企の館で育てられました。頼家は母の実家である北条氏よりも、比企氏に親近感を持つ将軍となります。

 また頼家は、比企氏の当主で比企尼の甥といわれる比企能員(?~1203)の娘、若狭局を妻にしました。若狭局は、一幡という嫡男も生みます。つまり頼朝を不遇時代から支えた比企氏は、2代将軍頼家の育ての親となり、さらには次代の将軍候補の外戚でもある、という最強のポジションを占めていたのです。

 逆に言えば、頼朝は最も信頼している比企氏を、何重にも頼家と結びつけることで、頼家の政権基盤を磐石のものにしようとしたのでしょう。

「13人の合議制」という政変

 これに対して、北条時政はどんな手を打っていったのでしょうか。