唐国第六代皇帝、玄宗の時代。皇帝は楊貴妃を寵愛して政務を怠り、宰相の楊国忠(ようこくちゅう)ら佞臣(ねいしん)の専横で内政は腐敗をきわめていた。
天宝十載(751年)、名門貴族の嫡男だった23歳の崔子龍(さいしりゅう)は、軍の監視役である「監軍」の隊長として辺境にいる。幼馴染である王勇傑(おうゆうけつ)のトラブルで男性器を欠損し、廃嫡された子龍は、監軍に配属された。本来は後宮に仕え、戦場では皇帝の耳目の役割を担う「宦官(かんがん)」が監軍には交じる。監軍使の辺令誠(へんれいせい)は皇帝の信を得て権力の中枢にいる宦官だ。「英雄」と謳われる唐軍総大将、高仙芝(こうせんし)を辺令誠は疎み、唐軍は大敗する。宦官の隊長、牛蟻(ぎゅうぎ)を惨殺した辺令誠の非道に憤る子龍は、落ちのびる。
天宝十四載(755年)、15歳の僧・真智(しんち)は、義父の遺志を継いで、宰相の不正を直訴する機会を窺っていた。皇帝の御前で競走する催しに出て、夏蝶(かちょう)という健脚の女性と出会う。その頃、子龍は都の長安に潜伏し、辺令誠に近づこうとしていた。しかし、大切な人をまた喪ってしまう。
「気に入らない男を跪かせるためだけに、何万の兵を殺してもなんとも感じないような、深い闇だ。おれは、そういう業の中にあるんだ」。上官に叛いて子龍を助け、闇の中で光を求めた牛蟻は惨殺された。従わぬ者は全力で潰し、人心を意のままに操ろうとする辺令誠の権力は凄まじい。物語は序章と6つの章で構成され、第1章からしばらく、子龍や真智を取り巻く状況は絶望的で、辛い。果てしなく大きく捉えがたいものが人々を圧している。しかし「天」は、権力よりもはるかに高く、広かった。〈見上げると、常に人の頭上に君臨する天がある〉。天の下で人として恥じない生き方をする人物が一人、また一人登場してせめぎあう中で、暗雲がたれこめた世界に光が差し、物語の明暗が切り替わる。誰がどのような生き方をするかで世の中は動くのだ。そんな中、安禄山挙兵の報が届く。楊貴妃を連れて逃亡した皇帝のいない長安で、人々の運命がぶつかり合う。
「それでは英雄とは何でしょうか」。子龍は辺境で高仙芝に問いかけた。「英雄とは、戴いた天に臆せず胸を張って生きる者だ」。「人はみな平等であると釈尊は説かれた。ではなぜ同じ天を戴くものの間に、人らしく生きる者と、人らしからぬ生き方を強いられる者がいる」と、真智は別の若僧に問う。「問答」場面がいくつもあり、敵役、辺令誠の人物造形も掘り下げて描かれているので、リアルなやり取りと物語のうねりに引き込まれる。
天とは、英雄とは、人の本当の強さとは。見事な中国歴史長編だ。2020年にデビューした著者の2作目で、新人離れした筆力に唸る。〈人が人らしく生きるために、だれかを殺傷しなければならないなど間違っている〉。今の世の中につながる問いをはらみ、現代を撃つ物語でもある。
ちばともこ/1979年、茨城県生まれ。筑波大学日本語・日本文化学類卒業。2020年、中国・唐の時代を舞台に苛烈な運命に抗う兄妹を描いた『震雷の人』で第27回松本清張賞を受賞し、デビュー。本作が第2作となる。
あおきちえ/1964年、兵庫県生まれ。フリーライター・書評家。日本推理作家協会会員。読売新聞、東京新聞などで書評を担当。