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「北条側の頼朝暗殺説は捨てきれない」歴史研究者が感心した「鎌倉殿」の見どころとは?

「北条側の頼朝暗殺説は捨てきれない」歴史研究者が感心した「鎌倉殿」の見どころとは?

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「義経が従来と解釈が違っていましたね」

和人 前半を振り返ると、源義経が従来と解釈が違っていましたね。

恵子 私は「サイコパス」みたいな人物像もありかなと思いました。

和人 “三谷義経”でしたね。私たち歴史研究者は三谷さんのようにその人物の心の内までは入っていけない。研究者として指摘できるのは、鎌倉幕府という組織の構造のなかでそれぞれの人物がどういう立ち位置だったかということ。

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 その点からみても、義経は変な人なんですよ。そもそも軍事編成を完全に無視していました。源平合戦では、総大将の源頼朝は鎌倉から動かない。戦場で源範頼と義経が御大将で、実際に戦場で指揮するのはその下の梶原景時、和田義盛(わだよしもり)、土肥実平(どいさねひら)といった百戦錬磨の御家人たち。この軍事編成は織田信長の時代まで変わりません。ところが、ドラマを観ても分かるように、上に居るだけで何もしなくていいはずの義経は積極的に戦場で、武者働きをしていました。

恵子 良くも悪くも型破りというか。トップの現場介入はいつの世もあるものね……。

本郷和人氏(左)と本郷恵子氏 ©文藝春秋

和人 それでいて戦上手だったのか? と言われると、私はそうは思いません。武士が守るべき道徳観念「兵の道」に背いているからです。壇ノ浦の戦いで平家側の舟を動かす楫(かじ)取りを射殺していたのが、その典型例といえます。

恵子 今の戦争でいえば、民間人虐殺ですよね。この時代でも武士の礼節から外れた行動といえます。

和人 屋島の戦いでは、暴風雨のなか、みんなに止められるのを振り切り渡辺津(大阪府)から出航を強行しました。暴風に流されて目的地の屋島(香川県)にたどり着けず、命からがら徳島に着く。『吾妻鏡』によれば、午前2時に出発して午前6時に着いたとあるから時速20キロから30キロぐらい。実はある歴史番組の企画で、屋島のまわりを舟に乗って同じスピードを体感してみたことがあるんです。僕みたいに運動神経が鈍い人は立っていることもままならないほどでした。