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和人 これも大河の影響ですね。最後の三つ目が上総広常ら東国武士たちの考え方。朝廷を重視する頼朝に対して、朝廷に頼らず「武士の、武士による、武士のための」政権を確立する。「関東は関東でやろうぜ」という「東国国家論」です。広常は、富士川で頼朝追討軍に勝ったあと、頼朝に「京都に上るよりも東国をしっかりと固めましょう」と進言しています。朝廷に配慮する頼朝と広常の路線対立がみてとれ、頼朝は組織を束ねるうえで広常が邪魔になったのでしょう。

恵子 例えるなら、鎌倉幕府は地方で成功した地場産業ですよね。中小企業が一部上場企業になる過程でいろんな葛藤がある。「全国展開して一部上場企業に上がるぞ」というのが頼朝の方向性で、対して広常らは「もっとローカルで自立してやろうよ」という考えでした。

和人 私は、北条義時は頼朝ではなく広常の考えを引き継いだとみています。三代将軍の源実朝が頼朝路線を選択して朝廷に接近すると、実朝を排除したわけですから。

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恵子 義時の子である泰時は、将軍を政治にタッチさせない「君臨すれども統治せず」の形にして御成敗式目を制定しました。将軍よりも武家独自のルールによって政権を安定させる狙いがあったと思います。

和人 それはあるかもね。義時とその子孫たちが賢かったのは、「俺たちは鎌倉で地道にがんばろう」と、朝廷に権威づけられた将軍に最後までならなかったことです。

本郷和人氏(左)と本郷恵子氏 ©文藝春秋

「北条側の頼朝暗殺説は捨てきれない」

恵子 ドラマでは鎌倉殿がついに亡くなりました。頼朝は、右手に痺れを覚え落馬するまえ、北条時政に対して疑心暗鬼になっていましたね。

和人 北条氏の正史『吾妻鏡』は、上総広常と頼朝という鎌倉時代初期の代表的な2人の最期を詳しく伝えていません。私は、北条側の頼朝暗殺説は捨てきれないと思います。

恵子 時政は政治的に干されていましたからね。頼朝が政治的に一番信頼したのは、大江広元(おおえのひろもと)ら文官です。御家人のなかでは頼朝・頼家の乳母の一族である比企(ひき)家が最も重用されていました。

本郷和人氏と本郷恵子氏による対談「『鎌倉殿』の死生観」は、「文藝春秋」2022年8月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

文藝春秋

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「鎌倉殿」の死生観