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歴史学者が「大河を観て気づいたこと」とは?

恵子 冷たい海に落ちたら平家の気持ちも分かったかも?

和人 救命胴衣を着ていましたよ、恵子さんを残して死ねませんから。義経のときはもっと小さい舟にみんながひしめき合って乗っていたはず。さらに20キロの鎧を着ているから落ちたら確実に沈み、死んでしまう。そんな状況で舟を出すわけですから無謀すぎます。結局屋島に一気に進撃して戦には勝ちましたが、あのときは運が良かっただけでしょう。その後、源頼朝に追われ舟で兵庫県の大物浦(だいもつのうら)から西国に向かうも、嵐に見舞われ船が転覆し西国行きは失敗に終わりました。それで奥州平泉に逃げるしかなかったのです。

恵子 前半で神回と言われたのが上総広常の死でした。双六中に梶原景時に刀で殺されて。あれは天台宗の僧侶慈円(じえん)が書いた歴史書『愚管抄』にそう記録されています。これからさらにドラマを楽しむために鎌倉幕府と京都の朝廷との関係を知っておくと良いかもしれません。

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三谷幸喜氏 ©文藝春秋

和人 おかげさまで大河をきっかけにいろんなことに気づかされています。武士は政権の正統性を獲得するうえで三つのやり方があったんだなと。一つ目が平清盛の方法で、朝廷に身を置き、貴族として出世して正統性を得ようとしました。自民党に入って改革をやろう派みたいなものです。二つ目が頼朝によるもので、鎌倉を拠点として距離を置きながらも、朝廷を注視し、関係は失いませんでした。

恵子 後白河上皇は頼朝を取り込もうと頼朝に上洛を何度も求めましたが、彼はそれになかなか応じなかった。だから、平家と違って上皇に振り回されませんでした。

和人 当時は京都へ行くのに2週間かかりましたから、物理的な距離がもたらす効果も大きかったと思います。頼朝がついに上洛したあとの1192年に、朝廷から征夷大将軍に任命されました。ここで政権の正統性を得たんです。あれ、そうなると鎌倉幕府の成立はやっぱりそのときでいいのかな?

恵子 前回の対談では頼朝が東国の武士を束ねた1180年説を唱えていたけれど。先祖返りね(笑)。