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グラビアと戦場のギャップ、待子の葛藤…

 さて、待子の掲載号を探してみると、『戰線文庫』第54号(昭和18年4月発行)、同第55号(昭和18年5月発行)で、どちらもグラビアに掲載されていた。

 第54号には「樂しき國技館の一日」と題して、昭和18年、皇軍戦傷兵のために国技館で行われた慰問招待角力(海軍慰問相撲大会)の様子がモノクログラビアで載っている。

 そこには以下の文章が掲載されている。

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 横綱双葉山、照國以下强剛總出場して敢闘絵巻を展開、熱戰に酔ふ海の勇士の傍らには花井蘭子、明日待子、戸川弓子、谷間小百合さん等が、心をこめて、接待に大童、誠に微笑ましい一日でありました。

 待子は東宝太秦撮影所所属の人気女優、花井蘭子らとともに、「感謝に震えつつ、お茶をどうぞ」と、愛らしく兵士に日本茶をサービスしている。軍服姿の兵士たちを前に、うら若き乙女の緊張が伝わってくる、絶妙のタイミングで撮影された1枚である。

 第55号は「ハテ面白い奇術」のタイトルで「奇術師」になった待子とムーランの女優連、 五十鈴しぐれ、堺真澄らが、兵士の前で奇術を披露する頁である。待子は目隠ししたり、紐を使った奇術をみせたり大奮闘。読者の兵士が暇な時間に部隊で再現できるように、『戰線文庫』 ではこんな遊びも紹介されている。

 しかし、「待子ちゃん、可愛い」とはしゃいだ文章が並んでいる前頁には「ソロモン島に向かう海の兵士」のカットが並ぶ。笑顔でマストを操る兵士たちだが、米国との激戦の末、昭和18年2月ソロモン諸島最大級の島、ガダルカナル島から撤退が開始されている。のちに「餓島」と呼ばれたガダルカナル島だが、そこで戦った日本兵の死亡原因は7割が病気と飢餓によるものだった。大本営は撤退を多方面に「転進」と発表した。待子たち銃後の人間は虚偽の報道を信じるしかなかった。

©iStock.com

 一方の陸軍慰問雑誌『陣中俱樂部』の連載頁「誌上陣中慰問」では、待子が書いた兵士への慰問文が紹介されている。

(前略)「涼風や、長期建設の旗ひるがへる......ほゝゑみを慰問袋に、つめにけり......初夏や、軍歌と歩む山の道......お笑ひ下さいますな、二百か三百かまとまツたら謄写版にでも刷ツて、前線の兵隊さんへお送りしたいと思つておりますの。私の代りに、せめて私の俳句だけでも、前線にとんで行かせたいと思つてゐます」(明日待子所蔵 発行年月日不明) 

 文章を書くのが好きだった待子らしい慰問文である。首を傾げてしとやかに微笑む、サイン付きの写真も載せられている。

 しかし、現実には、慰問はつらい思い出が多いと語る。