慰問袋から飛び出した私のブロマイドは、いつも歯をむき出してにっこりと笑っていただろう。兵士たちは、私の作り笑いを承知の上で、それでも優しく胸のポケットにおさめてくれた、と思うと、私はまた、やりきれなさで身の置きどころがないような気持になる。
おそらく私の名前さえ知らぬ農民兵士の手にも、ブロマイドは渡ったことだろう。彼らは、どこの馬の骨かわからない、見ず知らずの少女の顔を背嚢にしょって幾千里も歩き、そして死んでいった...もしそうだとしたら、何と悲惨な青春ではないか。(『わたしの渡世日記』高峰秀子著 文藝春秋刊)
1枚の若き女優のプロマイドが青年兵士たちの戦意高揚に役立った事実。また、新聞をはじめとするメディアがプロマイドの重要性を報じることによって、銃後でもプロマイドが空前の売り上げを示した現実。
待子の先の新聞記事と併せて読むと、こうして全方位から総動員体制に組み込まれていった、待子をはじめとする国民の悲劇が痛いほど伝わってくる。
ちなみに、戦争も激しくなってくると、マルベル堂では当局からプロマイドに出版中止の要請が出されたものの、慰問用に必要欠くべからずと判断され、どうにか制作が続けられたという。
太平洋戦争が起こった昭和16(1941)年12月には、海軍省報道部より出頭命令を受け、九軍神のプロマイドを急遽刷った。命令の3日後には全国同時には発売されるというスピーディさだった。九軍神とは真珠湾に散った特別攻撃隊の9人の青年のことである。
さらに要請はエスカレートし、東條英機ほか陸海軍の将官のプロマイドも製造販売された。繰り返しになるが、あの時代、プロマイドが戦意高揚、国民へのプロパガンダとして、重要な位置を占めていたのだ。