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「風俗嬢への偏見をなくそう」議論のノリにイマイチついていけない

 メリッサ・ジラ・グラントの著書『職業は売春婦』(2015年、青土社)の中に、とてもステレオタイプでわかりやすい、以下のような一文がある。

 セックスワーカーは抑圧される存在だと決めつけているせいで、セックスワークに対しても人目をはばかる仕事でしかないという見方しかできない。私はこうした狭い見方を排除し、想像の売春婦像を打ち破りたいと思っている。
 
 売春は犯罪である、売春婦は汚れている、犯罪ではないけれども道徳的に良くない、援助交際は魂に悪い、売春の非犯罪化によって人権を守るべき、売春は立派な職業、セックスワークはワークである、売春はセーフティネット、セックスワーカーは誇り高き職業人、売春の何が悪い、むしろ立派な仕事だ、売春したところで救われない貧困層もいる、売春でも高収入なら勝ち組……。
 

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 どれもこれも耳にタコと寝癖ができるほど聞き飽きた言説だが、どの主張にもそれなりの論理と、それなりの正義と、それなりの傷が入っている。それはわかる。基本的に最近の界隈の議論は「偏見をなくそう」と「悪しき慣習や無意味な法を一掃しよう」という方に向かっていて、その傷だらけの主張に何も感じないかと言われれば微妙なのだけど、ものすごく身を入れて打ち込めるか、というとそれも微妙だ。

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(1)性犯罪や人身売買の被害者をなくそうという主張と、(2)風俗嬢その他への偏見をなくそうという議論は全く分けてなされるべきで、前者に対してはもはや抗う力がどこかにあるとは思えないが、後者に関しては正直、なんか私はちょっとイマイチそのノリについていけない。というか、その緩やかな方向性に異存があるというより、どこまでやるつもりなんだろう、という点で大いに疑問なのだ。本当に、完全に、偏見をなくそうなんて思っているのだろうか。そんなこと、必要なのだろうか。

太古から続く「売春」への偏見。スティグマも伊達じゃない

 例えば先に挙げたグラントの著作の中では、売春婦の人権が認められないが故に、警察にも国にも頼れない彼女たちの非常に悲惨な現状が盛り込まれているし、それはかつてCOYOTE(米の売春婦権利擁護団体)や『セックス・ワーク』(F.デラコステ、P.アレキサンダー編 1993年、パンドラ)が前提としていたような状況でもある。

 例えば日本でも1987年に池袋で起こった、利用客に暴力を振るわれたホテトル嬢が抵抗して利用客を刺殺し、過剰防衛と認定された事件を覚えている人も多いだろう。この事件の判決で検察官が「被告人はそもそも売春行為を業としており」と留保をつけた主張をしたことは、現在でも当事者や支援者によるセックスワーク関連運動の大きな論拠となっている。

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 現代に突発的に出て来た事象(オタクとか草食男子とか流行病とか)に対するものならともかく、女性にとって最古の職業とまで言われる売春への偏見はそれなりに根深い。もちろん、根深いから諦めろ、というのではなくて、根深いのにはそれなりに理由がある、と私には思える。スティグマも伊達じゃない、と言いますか。

 無論、見知らぬ男性とホテルの密室で二人きりになることを想定したホテトル嬢やデリヘル嬢は首を絞められても身体に刃物を突きつけられても文句は言えない、なんてとても思えないし、時給2万円の代償がそれほどに大きいとは信じたくない。しかし、時給2万円には時給2万円の理由があると考えるべきだし、さすがに自信過剰な私も、かつて自分に日給100万円の価値があったと言うのは苦しい。

 そこには当然、ある種の偏見と付き合っていくことに対するお駄賃が含まれると考えられるのだが、しかしそれでも正当防衛が過剰防衛とみなされるほどの強固な偏見は含まれていて欲しくない、というのが本音だ。「偏見を取り除こう」という運動が何を目的に「どこまで」やるつもりなのか、という問題は大いに、100万円には「どこまで」が含まれるのか、という問題である。