「目標がなくなった子どもたちに対して、『一生懸命やれ』というのは残酷なのではないか」
原田は彼らをおもんぱかっていた。
一方で、一生懸命野球に取り組もうとしている3年生の選手たちがいた。本来であれば投げやりになりそうな状況でも、歯を食いしばって頑張っている。彼らには残りわずかな期間、龍谷大平安野球部で充実した時間を過ごしてもらうためにも、原田は以前に比べ、寮に頻繁に通って選手の生活をチェックするようにした。
「練習で疲れているのだから、寮では自由に過ごさせよう」という原田の親心から、それまでは月2回程度しか顔を出さなかったが、週2〜3回足を運んでは、選手の生活をこまめに見るようにした。あるときは、寮を退出して消灯の時間が過ぎるまで、外から寮を眺めては灯りの点いている部屋を確認し、「なんでまだ起きとるんやろう? ひょっとしたら誰にも言えない悩みごとでもあるんやろうか?」と心配をすることもあったが、原田はそっと見守ることしかできなかった。
「野球が存分にできる日常」
2020年当時、原田の25年以上にわたる監督歴のなかで、もっとも苦悩したのはこのときだった。「疫病で野球ができなくなる」ことなど、それまでは一度も考えたことがなかった。当たり前の日常が、当たり前でなくなってしまうことのジレンマが原田自身にもあった。
荒れ果てた平安野球部の再建を託されて監督に就任した1993年、1年生のなかでキャッチボールがまともにできる選手は11人中2人だけだった。だが、「コツコツ練習を積み重ねていけば、やがてうまくなっていく」ことを願い、原田は辛抱強く指導してきた。そうして少しずつではあるが、確実に成果が出てきたことに、原田も喜びを感じていた。
だが、それは「野球が存分にできる日常」があってこそ、初めて可能となることだ。野球をやること自体に制限がかけられた日々を過ごすなかで、選手だけでなく、原田自身も内心は相当不安を感じていた。
練習時間は1日2時間しかとれない状況
夏の甲子園大会の中止が発表されてから19日後の6月8日、京都府高野連は京都市内で会見を行い、中止となった高校野球選手権大会・京都予選に代わる独自の大会を開催することを発表した。8ブロックによるトーナメント方式で、ブロックごとの1位を決める。7月11日から26日の平日を除く8日間で行い、7イニング制で8回以降はタイブレークを採用、龍谷大平安はAブロックから出場することが決まった。
練習はこれまでのように存分にはできないままだったが、代替大会が行われるだけでもありがたいと思えた。これは原田だけではなく、選手全員が同じ思いだった。
ただし、練習時間は「1日2時間」と決められていた。これは京都府と京都市の両教育委員会から発表された「府立と市立の高校の部活動は原則2時間」というガイドラインに沿うものだったからだ。コロナ以前は授業が終わってから16時から20時くらいまで練習していたのだが、コロナ禍では「18時まで」でスパッと練習が終わりとなってしまう。しかも、それまでの3ヵ月間はまともに練習すらできていない。
そこで原田は、限られた練習時間のなかで打撃練習に多くの時間を割いた。学校の休校期間中、どんなに近所で自主練習をしていたと言っても、バットを思い切り振ってボールを飛ばす練習はほぼ全員の選手ができずにいた。どんなに投手が抑えても、打てなければ勝てない――。原田自身、熟考した末の練習メニューだった。