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「海岸以北に至れば二見館、濱の家、砂風呂館など、5銭(現在の約180円)均一の(所に)小僧大勢入り込み、ことに首なし女事件で有名な砂風呂は、好奇心に駆られやすい小僧連の足を引き、主人がホクホク顔なのもめでたい。なお砂風呂は砂風呂と温浴と海水浴を兼ね1室貸し切り1円(同約3600円)というので、5~6人組の連中が大層陽気に騒いでいた」

 少し金にゆとりのある奉公人らの夏の近場の行楽地だったことが分かる。しかし、そこには裏の顔と時代的な背景があった。

当時の大森海岸(「世の中」より)

なぜ行楽地が鈴ヶ森にできたのか

 明治維新以降、日本の工業化が進む中で人口が増加。東京の各地に住宅が建設された。それに伴って大正初期あたりから、郊外に日帰りの行楽地ができるようになる。

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 加太こうじ「[明治][大正]犯罪史」によれば、まず飛鳥山の桜見物などができる王子が「うまい物を食べて入浴して、時には売春婦を買って、ひと寝入りして、夕刻か夜には市内へ帰れる所として繁盛した」。

 次いで、東京駅を挟んで南西の鈴ヶ森あたりが適当ということになって「大森に何軒かの料理旅館ができた」。「こちらは海岸だから、別府にまねた砂風呂にしようと計画も決まって、大森の砂風呂とカニ料理は大正初期から市民に知られるようになった」「芸者のほかに、大概の料理旅館には、客の誘いに応じて売春をする女がいた。表向きは女中=仲居ということになっていたり、臨時にお酌を頼まれて来る“やとな”の形式になっていた」。

「[明治][大正]犯罪史」はお春についても、「前借をして田中伊助の養女になったから、戸籍上の長女だと推察できる」としている。おそらくその通りだろう。容疑者に挙げられた小守以外の複数の「情夫」とは、彼女のなじみ客だったとみられる。萬朝報の初報は「父子暮しの賣(売)春婦」という脇見出しを付けている。

「砂風呂」はいわば大正時代の東京の新風俗だった。しかし、雑誌「世の中」1917年6月号に載った白蓮華「秘密を包む大森の砂風呂」というルポによれば、この事件の後、取り締まりが厳重になり「目下のところ、砂風呂は20軒くらいで、新しく建てることは固く禁じられて」という状態に。

 1922年、料理屋と旅館の兼業が禁止されたため、「時勢の進運とともに、いつしか名物砂風呂の姿も全く影をひそめるに至った」(「大森区史」)。

捜査には草創期の警察犬も導入。しかし…

 報道が最も早かったと思われる報知の4月30日発行5月1日付夕刊の記事にはこんな一節がある。「探偵犬は(午前)11時10分、萩原警部補が中野の教養所から最も優秀なスコッチ・コリーと称する教養犬を引率して来て、現場付近を引き回してもっぱら活躍中だが……」。

導入間もない警察犬は活躍できなかったが…(読売)

「警視庁史 大正編」によれば、警視庁が警察犬を採用し、訓練係員を任命したのは1912年12月。スコッチコリー種の「バフレー」とレトリーバーの雑種「リリー」を購入し、府下中野町に訓練場を設けて訓練を開始した。

「犬の訓練は初めてのため、種々苦心はあったが」、1913年7月には犯罪捜査の実地訓練を実施した。この事件の現場に登場したのはバフレーということになるが、警察犬活動の草創期。