犬も係員も経験が乏しく、「屋外の犯罪であるうえ、朝から多数の人が往復したため、足跡も確認できず、遺留品もないため、ただ被害者の血液をかいで、死体の所在から約7~8間(約13~15メートル)隔てた(所から)凶行現場まで帰ってくるくらいにすぎず、根本嗅覚と称すべきものがないため、目下は大きな効力はないようだ」(報知)というのも無理はなかったかもしれない。
時事新報に「探偵犬は不成功」とされ、東朝には「警察犬無能」とまで書かれたのは少々気の毒。5月1日発行2日付報知夕刊は「犬の効力 一層の訓練を要す」の見出しで「警察犬の無能をうんぬんするは早計」と弁護した。
錯綜する情報、決め手はなく…
その後、事件報道はいったん下火になる。「犯人未だ判明せず」「嫌疑者は皆薄弱」という報道の一方、お春の妹分だった芸者のなじみ客の絵師(のちに同業の砂風呂兼旅館経営者と判明)を容疑者に浮上させるなど、いいかげんな記事も見られ、情報は錯綜したが、決め手はなかった。
時事新報は5月12日付で「重大犯人は何故逮捕されぬ 危い哉(かな)二百萬(万)の生命 全市の安寧を如何(どう)する」の見出しで、小守壮輔(同紙の記事では「小森宗助」)はいまも品川署に留置されているが「この事件もついに迷宮に入りたるごとし」(原文のまま)と書いた。
品川署から警視庁に身柄を移された小守が犯行を自供したのは「警視庁史 大正編」によれば5月30日。翌31日付で東朝、時事新報などが伝えた。こうして事件は、小守が復縁を迫ったのをお春に拒絶されたため、外に連れ出して殺したとされ、一応一件落着のように見えた。
「自供したのは警視庁の刑事に拷問されたためだ」
だが、5月31日発行6月1日付報知夕刊は、「同人は真犯人とは認めているものの、なにぶん証拠が一つも現れていないため、まだ動かし難い犯人ということは難しいのが遺憾だ」という品川署長の慎重な談話を掲載した。
それから半月余り後の6月18日、神奈川県師範学校書記で歌人の大槻禎郎(31)と小学校教師の妻(22)が横浜市内の自宅で殺される事件が起きた。夫は首を絞められ、妻は刃物で胸を刺されていた。手口から「恋の遺恨か」などと報じられたが、この事件がのちにお春殺しと深い関連を持ってくる。
同年9月28日、小守壮輔を被告とする公判が開かれ、小守は「当夜はお春に会ってもいないし、殺した覚えはない」と犯行を全面否認。9月29日付東朝は「犯状を自白したのは警視庁の藤倉刑事に拷問されたためだ」と主張したと書いた。
同じ日付の読売も「池田裁判長は、本件もまた例の警視庁が拷問で製造した身代わり犯人ではなかろうかとの疑いを起こし、大層綿密な審理をして……」とした。この時期、刑事による拷問など、事件の容疑対象者への人権蹂躙とされる問題が多発していた。