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「というのも、2匹目のドジョウが1匹目を追い越すことはできないんですよ。当時、『キックオフ』(ちば拓)という作品を載せましたが、あれはラブコメというよりもそのパロディでしょう。その後『北斗の拳』(武論尊・原哲夫)が出た。それで一気にサンデーを引き離しました」

作家の寿命を延ばすか、作品の寿命を延ばすか

 1983(昭和58)年に『北斗の拳』、翌1984年に世界的なヒット作となる『DRAGON BALL』(鳥山明)が始まると、ついに400万部を達成する。

「最終的にジャンプは600万部を超えますが、内容のピークは80年代半ばだったと思います。これはどうにも歯が立たなかった」と、当時は「マガジン」の前編集長になっていた宮原照夫は振り返る。

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「僕の方法論は編集者・原作者・マンガ家が三位一体で作っていくこと。ところがジャンプは、マンガ家個人の力がとても大きかった。新人の強さとは、今までにない新しい感性ですよ。絵があるマンガの場合、それが小説以上に出てくる。こればかりは編集者が作ろうとしても作れないんです」

 もちろん、編集部の力も無視できないだろう。「ジャンプ」に集まった新しい才能を磨き、開花させたのは編集者たちに他ならない。「マシリト」こと後に「ジャンプ」第6代編集長になる鳥嶋和彦は新人の鳥山明に目をつけ、『Drスランプ』開始まで2年ほど「ボツの嵐」を出し続けて鍛え上げたというのは有名な話だ。

 人気のある作品は終わらせない「ジャンプ」だが、ときには例外もある。西村によると、『Drスランプ』は最後まで人気が落ちなかったという。

「人気が落ちる前に担当の鳥嶋くんが終わらせて『DRAGON BALL』につなげています。作家の寿命を延ばすか、作品の寿命を延ばすか。そこで鳥嶋くんは『Drスランプ』を終わらせるという判断をしたわけです。編集長だった僕はもったいないなと思ったけど、当時は『キン肉マン』『キャプテン翼』『北斗の拳』など、強い作品がたくさんそろっていたからね。大丈夫だろうと思いました」

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。