大学生になった団塊の世代に読まれていた「マガジン」「サンデー」に対し、はっきりと子どもをターゲットにした「ジャンプ」は小中学生に熱烈に支持された。
苦肉の策だった新人起用も結果的にプラスに働いた。創刊当初、駆け出しだった永井豪と新人の本宮ひろ志がブレイクし、さらに他誌に先がけて「手塚賞」「赤塚賞」という新人賞を始めたことで、従来見られなかった新しい才能が続々と「ジャンプ」に集まるようになっていく。
「○○先生の作品が読めるのはジャンプだけ!」
本宮ひろ志を発掘したのは他ならぬ西村だった。ちょうど「ジャンプ」の創刊準備をしている時期、ボロボロの紙袋に原稿を入れて持ち込みにやって来た。やや意外な気もするが、当時の本宮はちばてつやにあこがれていたという。
「キャラクターはちばさんそっくりなんだけど、荒っぽい力のある絵だった。大きく開けた口の中にタテ線を描く。この手法は本宮さんの『男一匹ガキ大将』が元祖です。あの作品は子どもだけじゃなく、本宮さんと同世代である全共闘(団塊)世代の学生にも受けたんですよ。東大の安田講堂が陥落したとき、『ガキ大将』の総集編が何冊も落ちていたそうですから」
「○○先生の作品が読めるのはジャンプだけ!」で知られる「マンガ家専属制度」も本宮ひろ志が最初だった。
「自分たちが苦労して育てたマンガ家を持っていかれるのはかなわない、ということで長野(初代編集長)さんが発案したんです。さらに読者に対して“ジャンプでしか読めない”希少価値を売りにする、ということですね。建前の理由としては、1本に集中することでいい作品を描いてもらおうと。本宮さんは最初年間24万円だったけど、そのうちプロ野球選手の契約料くらいにはなりましたよ」
半世紀前の話だが、それにしても当時の24万円は現代の貨幣価値に換算しても100万円に届かないのではないか。恐ろしいことに初期の頃は「他誌で描かない」と約束させておきながら、必ず作品を載せる保証がなかったという。それはさすがに問題があるということで、2代目の中野祐介編集長の時代に、年間ではなく「執筆中は他で描かない」という契約制度に代わった。
「もっとも連載が終わっても、人気がある作家はすぐに次の連載を決めて更改していくから、結果的には毎年更新していくようなものですけどね」