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77年、運命の夏

「戦友が次から次へと死んでしまう。野球のことは考えられなかった」伝説のアスリートが見た中国戦線の地獄

「戦友が次から次へと死んでしまう。野球のことは考えられなかった」伝説のアスリートが見た中国戦線の地獄

特別対談・沢村栄治&笹崎僙 #1

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 1934年に来日したベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらのメジャーリーグ選抜チームから次々と三振を取った伝説的なプロ野球選手の沢村栄治。そして日本ライト級王者として活躍した笹崎僙。当時絶大な人気を誇った両者が日中戦争下の1940年、帰国後に戦地を語り合った。『文藝春秋が見た戦争と日本人』より、一部を抜粋して引用する。(初出:『オール讀物』1940年9月号「帰還二勇士戦争とスポーツを語る」)

◆ ◆ ◆

手榴弾は60メートルから70メートルはいきますね。

――沢村さんが手榴弾を大変投げられたとか新聞で拝見しましたが、そんなことからでも……。

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沢村 あれは軍隊にはいって教育を受けた時です。その時は相当投げましたが、いざ戦争になるとなかなか投げられるものではない。敵との距離は何メートルというほど近いし、うっかりやるとこっちがやられるので、思うようにいきません。大別山〔河南省、安徽省などにまたがる山脈〕では敵との距離が十メートルくらいしか離れていないのです。敵は山の向う側におって、こっちは山のこちら側におるのですからね。実際どこへ行ってもこのことばかり聞かれますね。

対談で戦場での経験を話した沢村栄治(左)

――どのくらい投げられますか。

沢村 そうですね。普通のところですと、六十メートルか七十メートル行きますね。野球のボールの三倍くらい目方があるでしょうね。

 普通の人は立って三十メートル投げればいい方でしょう。全然投げられない人がありますからね。前に投げようと思うのを横に投げる人があります。

笹崎 僕らは、自分が運動選手だったので、足がとても丈夫でしたね。広東攻略はバイヤス湾〔大亜湾・香港の東にある〕上陸から十日間でしたが、中二日ほどはほとんど一睡もしないような状態でした。他の者なんか足が豆だらけになって、充血してずいぶん苦しんだようでしたが、自分は拳闘で鍛えてあったためか、他の人よりは楽に行軍出来ました。とうとう最後には豆が出来ましたが、豆の出来ないのは俺ぐらいだろうというような顔をしてぶっ通しました。

――足は強いでしょうね。

沢村 そりゃ、運動選手は違います。私達は一月に二百八十里〔約千百キロ〕歩いたですからね。ふだん暑いところで運動をやっているのですから、こんな時は持って来いですよ。

笹崎 僕も汗を出すことには慣れていますから、楽ですね。自然と頑張りが出て来ますからね。普通の人よりは耐久力があるのですね。行軍してみると、ずいぶん差がありますね。ひどい奴は僕らの半分も続かないです。

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