文春オンライン

「あの少女はナパーム弾ではなく、火鉢の事故で燃えたんじゃないか」…報道写真「戦争の恐怖」がアメリカ軍に“フェイク扱い”された事情

『「ナパーム弾の少女」五〇年の物語』 #2

2022/07/23
note

 世界を震撼させた報道写真「戦争の恐怖」――ナパーム弾の爆撃直後という衝撃的な瞬間を、カメラマンはなぜ撮ることができたのか?

 その経緯を、朝日新聞記者の藤えりか氏の新刊『「ナパーム弾の少女」五〇年の物語』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

世界を震撼させた写真「戦争の恐怖」はなぜ“フェイク扱い”されたのか? ©getty

◆◆◆

ADVERTISEMENT

人間を高温で焼き尽くす「ナパーム弾」

 キム・フックは、あの爆撃の日に具体的にどんな服を着ていたか、実ははっきりとは覚えていない。だが薄手の服だったのは確かだ。

 熱帯モンスーン気候の南ベトナムは年中暑く、雨季にあたる6月は湿度も高い。子どもたちをはじめ地元の人々は、風通しがよくゆったりした薄手のコットンの上下を着るのが通常だ。キム・フックも当時、そんな服を着ていた記憶がある。かつ、身体にぴったりと密着させるのではなく、空気をはらませるようにふわっと着ていた。

 それが、不幸中の幸いだったのではないかと言われている。薄手の服は、逃げる際に風を取り込み、落ちてきたナパームの炎によって瞬時に剥ぎ取られた。もし、たとえばきっちりとした服をタイトに着ていたりしたら、燃えさかるジェル状のナパーム剤が衣服ごと身体にはりついて離れず全身に火が回っていたかもしれない。

 ジャンを抱きかかえた南ベトナム兵らが、そうして命を落とした。

 ナパーム弾は、ガソリンに化学物質などを混ぜて粘度の高いジェル状にし、対象にへばりついて、摂氏1000度以上、時には3000度近くの高温で焼き尽くす爆弾だ。燃焼時には大量の酸素を使うため、炎から逃れたとしても、酸欠による窒息や一酸化炭素中毒で死亡する可能性もある。

 この恐るべき爆弾が誕生したのは、第2次世界大戦のさなかの1942年。米ハーバード大学教授ルイス・フィーザーらが米政府と進めた極秘プロジェクトの中で生み出された。

 41年12月、日本軍による真珠湾攻撃を受け、米国は第2次世界大戦に参戦した。フィーザーらは米陸軍大佐の命を受け、ドイツ軍が英国で、日本軍が中国で使用したレベルを上回る焼夷兵器の研究開発を加速させてゆく。翌42年7月4日の独立記念日、ハーバード大学の構内にあるサッカー場で初の屋外実験が実施された。

日本人も犠牲に

 開発の初期段階でナフテン酸(naphthenic acid)とパルミチン酸(palmitic acid)を主成分とするヤシ油を混ぜたことから、ナパーム(napalm)と命名された。

 米軍は核兵器開発の傍ら、焼夷兵器としてのナパーム弾の実戦での精度を高めてゆく。日本とドイツで使用した場合の効果を測るため、米ユタ州の砂漠でドイツ風家屋と日本風の木造家屋を建設、畳を含めた家具調度も含めて再現しながら実験を実施。6分以内に消火不可能に陥った割合は、日本家屋がドイツ家屋をはるかに上回る、という結果が出た。

 45年2月には米英の連合軍がドイツの古都ドレスデンに、翌3月には米軍機B29が超低空飛行で東京に焼夷弾を浴びせた。この「ドレスデン爆撃」では約2万5000人が、「東京大空襲」では10万人以上が犠牲になる。終戦まぎわの硫黄島の戦いや沖縄戦では火炎放射器として、洞窟などに隠れる市民や日本兵に浴びせられた。