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「あの少女はナパーム弾ではなく、火鉢の事故で燃えたんじゃないか」…報道写真「戦争の恐怖」がアメリカ軍に“フェイク扱い”された事情

『「ナパーム弾の少女」五〇年の物語』 #2

2022/07/23
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「あの日までは、とても幸せな子どもだった」

「あの日までは、とても幸せな子どもだった」とキム・フックは何度も述懐している。

 一家の5番目の子どもとして彼女が生まれたのは1963年4月6日。南べトナムではその頃、米国を後ろ盾とするゴ・ジン・ジエム大統領の仏教弾圧が深刻となっていた。翌5月、仏教弾圧に抗議するデモを行った非武装の仏教徒が治安部隊に銃撃される。6月には僧侶が路上で抗議の焼身自殺をし、当時AP通信の写真記者だったマルコム・ブラウンがその瞬間を撮った写真が配信され、世界に衝撃を与えた。

 その後もベトナム情勢は混迷を深め、戦争は深刻さを増したが、彼女自身はそれをじかに意識することもなく、日々を過ごしていた。あの日までに負った最もひどいけがは、自転車で転んで膝をすりむいた程度だ。

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 自宅は、あのナパーム弾爆撃を受けた寺院の近く。その数年前に新築したばかりで、門扉がついてバルコニーもある、一帯では目立つ邸宅だった。地下には、爆撃から身を守るための地下壕も備えていた。

 その費用を主に稼いだのは母ヌーだ。彼女は一帯で評判の麺店を切り盛りし、一家を支えていた。

 母は幼少時代、学校に行くことも叶わず、スープを作っては売る暮らしを余儀なくされた。その分、出汁をとる腕前は超一級。結婚まもない51年、父トゥンが「君のスープはとてもおいしい。みんな、お金を払って食べたいと思うんじゃないか」と提案したのをきっかけに、手打ち麺のバインカンや、すりつぶした米と豚モツのお粥を出す屋台を始めた。案の定、人気店となり、父も釣った魚や野菜を焼いて出すようになる。国道沿いの好立地に、80人の客が入る規模の店を構えるようになり、木彫りのテーブルや椅子もしつらえた。

 60年代に米ケネディ政権が軍事支援を拡大したことで、ベトナムの景気もよくなっていく。チャンバンにも米兵が続々とやって来て、母の麺店は大繁盛した。

 自宅の敷地内では100頭以上の豚や鶏、アヒルを飼い、グアバやバナナ、ドリアンなどの果樹も植えた。キム・フックが学校から帰ると、熟れたグアバを木からもぎ取り、友だちと頬張る日々。母はほぼ毎晩、麺店からごちそうを持ち帰り、新鮮な果物とともに家族で囲んだ。

 キム・フックは、漢字で表すと「金福(キム・フック)」。その名の通り、お金にも食べ物にも困らない暮らしを送った。「家の入り口を入るたび、お姫様のような気持ちになれた」と彼女は振り返る。

 だが、それだけ裕福そうな邸宅だっただけに、次第に解放戦線の兵士に目をつけられる。

 チャンバンはカンボジア国境にも近く、南東にサイゴンへ続く主要ルートもあり、解放戦線には拠点としておさえたい地域だ。

 ある朝、祖母タオが敷地内で、解放戦線兵士のものと見られる足跡を見つけた。以来、72年春頃にかけて次第に、解放戦線の兵士らが何かと姿を現すようになる。薬や包帯、米、石鹸などを分けるよう言われたり、一行を寝泊まりさせろ、負傷した仲間をかくまえ、などと求められたりするようにもなった。

 逆らえばどんな目に遭うかわからない。かといって、解放戦線に協力したと見られれば、南ベトナム政府からは厳しく処罰されてしまう。