罪のない民間人を大量虐殺した悪魔の兵器「ナパーム弾」とは、どのようなものだったのか? 1972年6月8日、世界中の人々に強烈な印象を残した「ナパーム弾の少女」のエピソードを紹介。
朝日新聞記者の藤えりか氏の新刊『「ナパーム弾の少女」五〇年の物語』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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「ここで何かが起きる」
その日は昼前から、文字通りの暗雲が一帯に垂れ込めていた。
1972年6月8日、「ベトナム共和国(南ベトナム)」のカンボジア国境にほど近い農村地帯、タイニン省チャンバン。首都サイゴン(現・ホーチミン)から北西に40キロほど、緑濃い水田や林が広がる郊外に、白壁のカオダイ教寺院が建ち、正面から国道が一直線に延びる。寺院から数百メートル手前では、道路を横断するように、竹や鉄条網などが幾重にも重なって置かれ、バリケードとして人の往来をふさいでいた。
いつもは、牛を引いて野菜や穀物などを運ぶ人々や、バイクや自転車で移動する人たちが行き来する幹線道路。そこでこの日、朝から陣取っていたのは、米英などの報道陣だ。米AP通信や米紙ニューヨーク・タイムズ、米誌のライフやタイム、ニューズウィークに、米3大ネットワークのABCやNBC、CBS、英テレビネットワークITN……。各地の大手メディアから派遣された記者ら15人以上が、一眼レフやテレビカメラを構えていた。
そう、「ここで何かが起きる」というのはある程度、取材陣も予期していた。チャンバンはベトナム戦争の前線の一つとなり、すでに戦闘が打ち続いていたのだ。
米ソの冷戦が泥沼化するまで
世界は、「資本主義陣営」の米国を中心とする「西側」と、「共産主義陣営」のソビエト連邦をはじめとする「東側」とがにらみあう冷戦のまっただ中だった。
ベトナムはフランスによる植民地支配、日本軍の進駐を経て1945年9月、「民族解放」「民族自決」を掲げる革命家ホー・チ・ミンが「ベトナム民主共和国(北ベトナム)」を樹立し、再度の植民地化をもくろむ旧宗主国フランスとの第一次インドシナ戦争で勝利していた。
米国は「ある国や地域が共産化すれば、ドミノ倒しのように共産主義が広がる」とする「ドミノ理論」を根拠に危機感を強め、共和党のドワイト・D・アイゼンハワー米大統領のもと、54年のジュネーブ協定で南北に分断されたベトナムの南側で、「反共」のゴ・ジン・ジエムを初代大統領に55年に成立した「ベトナム共和国(南ベトナム)」を後押しする。
米国はさらに、ホー・チ・ミン率いる北ベトナムの勢いを警戒し、ジュネーブ協定が定めた56年の南北統一選挙も南ベトナムとともに拒む。理想を掲げて誕生したはずの民主党のジョン・F・ケネディ米政権も62年、南ベトナムに軍事援助司令部を置き、公然と軍事介入を進めた。