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 ケネディ暗殺後に成立したリンドン・B・ジョンソン米政権は64年、米駆逐艦が北ベトナムから攻撃を受けたとする「トンキン湾事件」で戦争の大義を仕立て、戦闘部隊や武器・弾薬を相次ぎ投入、翌65年には大規模な北ベトナム爆撃(北爆)を展開してゆく。ピーク時には50数万もの米兵をベトナムに送り込み、冷戦どころか「熱戦」を泥沼化させたのだ。沖縄県の米軍嘉手納(かでな)基地はB52の出撃拠点となった。

なぜメディアはベトナムに集まったのか?

 北ベトナムは「抗米救国戦争」を掲げてこに対抗した。南ベトナムの足元では、「反米」「ジエム政権の独裁打倒」を唱える「南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)」がゲリラ戦を重ねる。圧倒的な軍事力を誇ったはずの米軍は、「ベトコン(越共=ベトナム人の共産主義者)」と蔑称で呼んだ解放戦線や、北ベトナムに次第に追い込まれ、68年の「テト攻勢」で、サイゴンの米国大使館が一時占拠される事態にまでなった。

 この頃から特に、ベトナム戦争をめぐる米国の世論も厳しさを増し、反戦運動が大きなうねりとなってゆく。世界の大手メディアはこぞって報道陣を現地に送り込み、写真や動画を交えて戦場の惨状を次々とつまびらかにしていたが、米国大使館占拠の衝撃的な映像に加え、「テト攻勢」の最中に解放戦線兵士の捕虜が南ベトナムの警察幹部に路上で射殺される瞬間がAP通信から世界に配信され、ますます非難轟々となる。

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 71年には国防総省の機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」が、同省の戦略分析家だったダニエル・エルズバーグの内部告発で暴露され、トンキン湾事件が一部でっち上げだったことも明らかになり、人心はますます離れていった。

 ベトナム市民はもとより、米兵の犠牲も増え続ける中、69年に米大統領に就いたリチャード・ニクソンは、「戦争のベトナム化」「名誉ある撤退」を掲げ、米軍自体の投入は減ってゆく。ただし、南ベトナムには引き続き、兵器や物資を運び入れた。しかも、そうした米国の武器が、ゲリラ戦で南ベトナム兵を打ち負かした解放戦線の兵士らの手にも渡ることになる。

 北ベトナムは、72年2月のニクソン訪中をはじめとする米中接近で揺さぶられる一方で、ソ連などの支援も背景に同年3月、「イースター攻勢」で南北ベトナムの軍事境界線を突破する。米軍は同年5月からの「ラインバッカー作戦」で北ベトナムへの空爆を再開したが、一方で駐留米兵は同年6月ごろまでにおよそ7万人にまで減っていた。

 南ベトナムの各地で解放戦線が優勢となる中、国道が貫く国境近くのチャンバンも、あちこちを解放戦線の兵士らが占拠するようになる。彼らに脅され手先として使われる住民もいれば、自ら進んで協力する住民も出る状況だ。解放戦線や北ベトナム軍がチャンバンを要衝とし、国道を支配下に収めてサイゴンまで進軍してくるのを防ごうと、南ベトナム軍は72年6月8日にかけて、戦闘を続けていた。