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「あの少女はナパーム弾ではなく、火鉢の事故で燃えたんじゃないか」…報道写真「戦争の恐怖」がアメリカ軍に“フェイク扱い”された事情

『「ナパーム弾の少女」五〇年の物語』 #2

2022/07/23
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 ナパーム弾の開発はその後も進んで威力が高まり、50年に勃発した朝鮮戦争でも市街地が火の海と化した。その後、さらに大量に投下されたのがベトナム戦争だ。

 米軍は64年には、ガソリンに混ぜる化合物をポリスチレンやベンゼンに変えた新たな「ナパームB」を開発する。従来よりも粘着性が高く、燃焼温度は摂氏2000度以上になり、燃焼時間も従来の15~30秒から10分へと長くなった。米ダウ・ケミカルなどが開発した新兵器は、原材料などを日本も供給したとされ、ベトナムに次々と持ち込まれた。

 爆撃機が低空飛行をしながら投下して強い衝撃を加えることで、ナパーム剤はより激しく燃え人体に張りつき、炎も深部までゆきわたる。キム・フックはそうしてⅢ度の熱傷を負い、神経も毛包も汗腺もダメージを受けた。

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 その非人道性から、米国では反戦運動が高まるとともに、ダウ・ケミカルなどへの抗議も強まった。ベトナム反戦を唱えた公民権運動家のキング牧師も67年の演説で、「ナパーム弾で人間を焼く行為」と強く批判している。

 一方、小説『怒りの葡萄』で知られるノーベル文学賞作家ジョン・スタインベックは、ナパーム弾の威力に別の意味でこだわった。

 スタインベックは66年1月、当時の米大統領リンドン・B・ジョンソンの特別補佐官にあてた書簡で「現代の最も恐ろしい兵器はナパーム弾だと考えている」としたうえで、こんな提案をした。「野球のボールくらいのサイズと重さのプラスチック球体にナパームを詰め込んだ、ナパーム手榴弾」、名づけて「スタインベック・スーパーボール」の開発提案だ。スタインベックは書簡でさらに、「起爆装置のパワーは非常に小さくても可能だ」「袋いっぱいにボールを詰めて、危険に遭うことなく運べる」「13歳以上の米国人で、内野から本塁まで正確に投げられない少年はいない。空き地で野球をした経験のある大人ならもっとうまくやれる」と得々とつづっている。

 つまり、ナパーム弾に警鐘を鳴らすどころか、絶賛だ。書簡は「この提案を(大統領に)通してもらえますか?」と、前のめりに一押しする言葉で結ばれている。スタインベックはこの時、次男が米軍に徴兵されていた。

火傷で瞼が閉じられなくなった女性も

 ナパーム弾は、日本で45年に1万6500トン、朝鮮半島で3年強で3万2357トン、最終的にインドシナ半島では63~73年に38万8000トンが米軍などによって投下されたという。戦争を追うごとにパワーも量も増していった形だ。

 米紙ニューヨーク・タイムズは、ナパーム弾を浴びたベトナムの女性が、火傷で瞼を閉じられなくなり、夜は目元を毛布で覆って眠るしかないといった話も伝えている。

 一般市民への被害が深刻になるにつれ、反戦運動やナパーム弾使用への批判も強度を増し、米軍によるナパーム弾使用は徐々に減っていた、とニューヨーク・タイムズは72年6月時点で書いている。代わりに、米軍がベトナムに持ち込んだナパーム弾を投下し続けたのが南ベトナム軍だ。キム・フックのケースがまさにそれに当たる。

 国際連合は80年、人口密集地域へのナパーム弾などの使用を禁止する「特定通常兵器使用禁止制限条約」を採択、83年に発効した。だが、その後も各地の戦争や紛争で使用された疑念が、人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」や米ハーバード大学ロースクール国際人権クリニックなどから取り沙汰されている。