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「あの少女はナパーム弾ではなく、火鉢の事故で燃えたんじゃないか」…報道写真「戦争の恐怖」がアメリカ軍に“フェイク扱い”された事情

『「ナパーム弾の少女」五〇年の物語』 #2

2022/07/23

母の店を巻き込んだ爆発テロ

 そんな中、事件が起きた。

 母の麺店に、結婚を祝うグループがやって来て宴会を開いた。彼らがテーブルで盛り上がり始めた頃、店の前に自転車が止まった。ほどなく、自転車にくくりつけられた爆弾が爆発する。店中が血の海となり、客ら19人が死亡した。

 解放戦線のテロだったとみられる。母はけがはしたものの、幸い命は助かったが、人々が吹き飛ばされる凄惨な一部始終を目の当たりにした。

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 母はその後、南ベトナムの警察に拘束された。爆弾を逃れて助かったことから、「解放戦線の一味に違いない」と嫌疑をかけられたのだ。最終的に、父がツテなどを頼って働きかけたこともあって釈放されたが、拘束は1ヵ月ほど続き、厳しい尋問を受けた。

 戦いが続く中、南ベトナム政府は反政府活動を厳しく取り締まっていた。

 ベトナム南部コンソン島には、「虎の檻」と呼ばれる監獄がある。フランス植民地時代から続く政治犯の収容所だ。灼熱地獄にさらされ、凄惨な拷問が行われたことなどから、そんな別名がついた。その非人道性から、かえって反政府派を増やし、ひいては解放戦線の勢力を強める結果になったと言われるほどだ。政府に疑われた人は、悪くすればこの監獄島に送られる可能性もあった。

 一方で、解放戦線に睨まれたらただちに「処刑」されかねないという恐怖も、一家は店の事件でまざまざと見せつけられた。

 母は求められるまま、解放戦線の兵士らを密かに敷地内に招き入れ、豚肉やキャッサバ芋、果物などを料理して出し、寝床も提供した。

 解放戦線の兵士は普段、木々の陰や山間地に身を潜めていることから、一家は彼らを陰で「森の人たち」と呼んだ。

 小学校の教師をしていた長姉ロアンはさらに、「森の人たち」の要員として狙われてゆく。解放戦線の兵士には読み書きができない人も少なくなく、教師はうってつけの連絡役として駆り出された。

 父は、特に夜間は家にいないようにした。大人の男性がいれば、解放戦線の兵士の手先としてさらに使われ、従わないと殺されかねない。一家は、家には母や子どもたち、年老いた大おじしかいないかのように振る舞った。

「森の人たち」はついには自宅の敷地内で、逃走や輸送に使うためのトンネルまで掘り始めた。もしものために地下壕も設けていたのに、自宅はもはや安全な場所ではなくなった。解放戦線の兵士らは、家の前で目立ってたむろするようにもなる。

戦争で家から出る事態に

 72年6月6日、まだ辺りが薄暗い早朝、キム・フックは、辺りをはばかる母の声で起こされた。

「おいで、出かけるよ」

 キム・フックは寝ぼけまなこで答えた。

「なぜまだ出かけていないの?」

 いつもなら母はこの時間には、麺店の開店準備のため出かけているはずだったからだ。母は「静かに」と娘を追い立てた。

 近くの寺院に向かったのは、避難先としてベターだと思っただけでなく、後で荷物を取りに行ったり家畜の様子を見に戻ったりしやすいと考えたためだ。

 この4時間ほど前にすでに、解放戦線の兵士らはトンネル掘削を続けるため自宅に現れていた。ちょうど、家族を連れて避難しようと準備していた母は、「家に入れてあげますから、私たちは出てもいいですか」と穏やかに懇願した。だが解放戦線のリーダーは「今出て行かれたら、我々の居場所が南にバレてしまう」とピシャリとはねつけた。結局、「我々がトンネルを掘り終えるまで3~4時間待て。そうしたら行っていい」と言われ、4時間待つことになる。ついに家を出てもいいと言われた母が、子どもたちを起こしたのだ。みんなで持てるだけの物をかき集めて抱えた。

 家を出る時、あらゆる扉が家からなくなっているのにキム・フックは気づいた。解放戦線の兵士らが取り外したのだ。外に出ると、銃を構えた解放戦線の男性だらけだった。

 彼女は急に怖くなった。その手を母はしっかりと握り、一家は寺院をめざした。父はこの時も不在だった。

 寺院に入ると、薄暗い外とは打って変わった鮮やかなオレンジやターコイズブルー、赤紫、金色の色彩が、彼女の目に飛び込む。龍のデザインが施された柱や、大理石の床に目を奪われ、怖い気持ちも和らいだ。寺院の離れに寝泊まりすることになったが、南ベトナム兵の姿も目にし、なんとなく安心できた。

 寺院の外が騒がしくなり、そばにいた南ベトナム兵が「逃げろ!」と叫んだのはその2日後のことだった。