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77年、運命の夏

「戦友が次から次へと死んでしまう。野球のことは考えられなかった」伝説のアスリートが見た中国戦線の地獄

「戦友が次から次へと死んでしまう。野球のことは考えられなかった」伝説のアスリートが見た中国戦線の地獄

特別対談・沢村栄治&笹崎僙 #1

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沢村 私は向うで練習しようという気持は全然なかったのです。戦友が次から次に死んでしまうでしょう、全然野球のことは考えなかったですね。ただまえに慶応でキャッチャーをやっていた小川〔年安〕君(現在大阪タイガース〔現、阪神〕所属)に戦地で会って初めて野球というものをボーと思い出したくらいです。

笹崎 警備になって多少余裕が出て来ると自分がやっておったものはなつかしくなります。三、四ケ月も経つとこっちとの往復も出来るようになる。それでボクシングのニュースが来たり写真が来たりすると、自分のやっておったものはなつかしくなってまたやって見たくなるですね。

向うから帰って来ると気があせるのです。自分の体というものを忘れてしまうのですよ。

笹崎 入江〔盛夫〕君〔日中戦争で戦死〕が行っていますね。雑誌で見てびっくりしました。入江君は拳闘選手として非常に良かったんです。その他に藤田さん。

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沢村 藤田左伝〔ボクサー〕さんでしょう。あの人には戦地で始終あっていました。実際面白い人でした。

笹崎 まだ帰って来ませんね。

――藤田君はカムバックしそうですね。技術はあまりないが、ファイトがある。

笹崎 技術も大事だが、僕らのこういうことをやるものは精神ですね。小池君〔小池実勝・ボクサー〕も戦地へ行っていたが、神経痛なんか患って……。

――あの人の帰って来ての最初の試合を見ましたが、体が動かなくって駄目でしたね。

笹崎 やろうという気があったら、もう少し慎重に構えてやるべきだと思いますね。

沢村 やはり向うから帰って来ると気があせるのです。自分の体というものを忘れてしまうのですよ。ある程度判っていても、僕なんかもグランドに行くとすぐにやりたくなってしまうのです。それでやってしまうでしょう。それで馬鹿なことをしたなと思う。やはり半年くらい静養してからやった方が良いようですね。

笹崎 僕らも帰って来て一ケ月足らずでやったんですが、他の人はもっと自分のコンディションを整えてからというのですが、こっちはあせっているし、第一好きなもんだから、他人の試合なんか見ているとうずうずして来る。

――巨人軍のキャッチャーの中山〔武〕さんは気の毒でしたね。

沢村 あれは敵前上陸で……。

――沢村さんも怪我をされたそうですが。

沢村 左の手のここ(中指の附根の傷を見せる)と足に迫撃砲の破片で一ケ所。

――笹崎さんはお怪我は……。

笹崎 は、幸い怪我はしませんでした。

さわむら・えいじ(1917~44)1934年に来日したベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらのメジャーリーグ選抜チームから次々と三振をとる。後に、創立間もない東京巨人軍に入団、ノーヒットノーランを3度成し遂げるなど草創期のプロ野球を牽引する。2度の召集でいずれも中国戦線に出征し、武漢攻略戦などの激戦に従軍した。1944年、3度目の召集で南方に向かう途中、輸送船が撃沈され死亡した。

ささざき・たけし(1915~96)は、「槍の笹崎」と異名をとったプロボクサー。日本ライト級王者。1941年、ピストン堀口との「世紀の一戦」を戦う(試合は敗れた)。引退後は、指導者となる。日本初の世界フライ級・バンタム級で二階級制覇をしたチャンピオンのファイティング原田らを育てた。

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