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 小田を含む11名は列車や船を乗り継いで小樽に到着。この時、初めて出会ったのが、戦車第十一連隊の連隊長に新任されて占守島に向かう途中の池田末男大佐だった。池田は明治33(1900)年、愛知県豊橋市の生まれ。陸軍士官学校卒業後、満洲の陸軍戦車学校の校長代理などを歴任し、昭和史に「戦車隊の神様」として名を残す人物である。

「小樽に越中屋旅館という宿があるのですが、そこで初めてご挨拶しました。本当に立派な方でしたよ。厳格なところが四分、柔和なところが六分。『豪傑』という雰囲気もあるのですが、決して厳しいだけの人ではありませんでした。私のような新米の少年戦車兵にも丁重に応対してくれる。食べ物も『皆の分がないなら、俺は食べなくていい』と」

敵は「ソ連ではなくアメリカ」だったはずが…

 2月、小田は幌筵(ぱらむしる)島などを経て占守島に上陸。南北約30キロ、東西約20キロの島には、約8500名の日本軍将兵が駐留した。小田は元々、独立戦車第二中隊の所属だったが、同隊は戦車第十一連隊に吸収された。戦車第十一連隊は「十一」という隊号と「士」という字をかけて、「士魂部隊」と呼ばれていた。

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 戦車第十一連隊は6個の戦車中隊と1個の整備中隊から成っていたが、小田は第四中隊に配属された。中隊長は伊藤力男大尉である。当時、小田は17歳。階級は伍長だった。小田は島の様子をこう振り返る。

「寒いことで有名な陸別の出身のせいか、私は正直、雪や吹雪はあってもそこまで寒いとは感じませんでした。春になるといろいろな花が咲いて、とてもきれいな島でした」

 第四中隊は、島の中央部に位置する大和橋という地に駐屯した。

「島には米軍からの空爆が時々ありましたが、そんなに緊迫した雰囲気でもなかったです。たまに米軍機の撃墜に成功すると、羊羹が1人1本出ました。食事は1日3食ありましたが、『2年分の食糧で4年食いつなげ』ということだったので、正規の量の半分。6~8分づきの玄米が主食でしたが、昆布やワカメを浜から採ってきてストーブで焼いて食べたり、野草を採ったりして凌ぎました。マスの群れが川に上ってきた時は嬉しかったですね」

 ソ連との戦闘についてはどの程度、想定していたのだろうか。

「上層部は知りませんが、我々はそんなことは全然考えていませんでした。敵はソ連ではなく、あくまでもアメリカ。ソ連とは中立条約がありましたからね。中隊長のお供で二度ほど島の北端の国端崎(こくたんざき)に行きましたが、そこで双眼鏡を覗くと、海峡を挟んだ対岸にソ連兵の姿が見えるんですよ。でも互いに攻撃はしない。上官からは『日本はアメリカとの停戦交渉の仲介役をソ連にお願いしているところだから、余計なことはするな』と言われていました」