1ページ目から読む
3/3ページ目

 この言葉通り、日本政府はアメリカとの仲介役をソ連に依頼していた。しかし、実際のソ連はすでに同年2月、アメリカ、イギリスと対日参戦に関する密約を結んでいた。ソ連は日本からの仲介依頼をはぐらかしつつ、対日参戦の準備を秘密裏に進めていたのである。ソ連は日本の敗戦時に電撃参戦して領土を奪取し、戦後の国際情勢を優位に進めようと考えていたのだった。

ソ連の奇襲が始まった

 8月15日、玉音放送が流れた。

「雑音でほとんど聞き取れませんでした。ですが、その日の夕方頃、人づてに『終戦』と聞きました。負けたということでしたが、故郷の北海道は戦場にならなかったし、ホッとした部分もありました」

ADVERTISEMENT

 翌16日、伊藤中隊長から「今日1日はゆっくり休め。明日以降はいつ米軍が来ても武装解除に応じられるよう、戦車の中まできれいにするように」との指示が出された。

「自分の銃を敵に渡す時、もしその銃が汚れていたら、敵兵に『ああ、こんな軍だから負けたんだ』と思われるかもしれない。そうなったら恥でしょう。ですからきれいに磨いて渡そうと思いました」

いまも島に残る日本軍の戦車の残骸

 しかし17日の夜、状況は一変した。島の北部が不意の砲撃に晒されたのである。終戦後にもかかわらず、ソ連が奇襲を開始したのだった。

 18日午前1時過ぎには、ソ連軍の海軍歩兵大隊などが占守島北端の竹田浜に殺到。陸軍の狙撃連隊などがこれに続き、ソ連軍の兵力は延べ約9000人に及んだ。浜一帯は激しい地上戦の舞台と化した。

 ソ連軍侵攻の報は、「北の備え」の指揮をとっていた札幌の第五方面軍司令部にもすぐに送られた。この時、第五方面軍の司令官だったのが樋口季一郎(きいちろう)中将である。樋口は満洲のハルビン特務機関長だった昭和13(1938)年3月、ナチスドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民に特別ビザを出すよう奔走して救出した経歴を持つ。そんな「知られざる名将」である樋口は、ソ連軍の侵攻に対する戦いを「自衛戦争」と断定。実は樋口は若い頃から「対ソ戦」を専門とする情報将校だった。樋口はソ連の南下政策と野望について充分に研究していたのである。樋口はこう現地に打電した。

「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」

 ソ連軍の侵攻を占守島で阻止しなければならない。もしここで跳ね返さなければ、ソ連軍は千島列島を一気に南下し、北海道まで迫るであろう。樋口はそう分析した。

 樋口の考えは当たっていた。ソ連最高指導者のスターリンは、釧路と留萌(るもい)を結んだ北海道の北半分を占領する計画を有していたのである。

ノンフィクション作家・早坂隆氏による「証言・ソ連を北海道から撃退せり」の全文は、「文藝春秋」2022年9月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

文藝春秋

この記事の全文は「文藝春秋 電子版」で購読できます
証言・ソ連を北海道から撃退せり