玉音放送の2日後、ソ連が侵攻。男たちは故郷のために命をかけた――。ノンフィクション作家・早坂隆氏による「証言・ソ連を北海道から撃退せり」(「文藝春秋」2022年9月号)を一部転載します。
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第一線の交戦を知る「最後の証言者」
ロシアによるウクライナ侵攻を契機に、日本でも戦争について考える機会が増えている。「実際の戦場では何が起きているのか」「ロシア軍の実態とは?」といった疑問を感じている方は少なくないであろう。降伏に関する議論も過熱している。
こうした時こそ、歴史に教訓を求めるべきである。とりわけ日本は、対ロシア(ソ連)関係において、実は「良き教材」を有している。
それが日本の「国のかたち」を守った「占守(しゅむしゅ)島の戦い」である。この戦闘がなければ、日本はドイツや朝鮮半島のような分断国家になっていた可能性が高い。
だが、そんな重要な戦闘であったにもかかわらず、この史実はあまり知られていない。本稿では、占守島で実際に戦った元兵士の証言を軸としながら、その知られざる実態について迫っていきたい。第一線の交戦を知る「最後の証言者」による貴重な記録である。(以下、一部敬称略)
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昭和3(1928)年2月14日、小田英孝(ひでたか)は北海道足寄(あしょろ)郡陸別町に生まれた。根室商業学校を卒業した小田は、昭和18(1943)年12月、静岡県富士宮市にある難関の陸軍少年戦車兵学校に合格(5期生)。現在、94歳の小田は、笑みを浮かべながらこう語る。
「どうせ徴兵で兵隊になるのなら、自分の好きな兵科のほうが良いと思い、少年戦車兵を選びました。国や故郷、親兄弟を守りたいという気持ちは当然ありました」
昭和20(1945)年1月、同校を繰り上げ卒業した小田の派兵先が、千島列島の最北端に位置する占守島だった。日本軍はアリューシャン列島からの米軍の進攻に備え、占守島の要塞化を進めていた。
「私は北海道出身なので占守島という地名は聞いたことがありました。でも他の戦友たちは知らなかったでしょう」