世界経済フォーラムが『グローバル・ジェンダーギャップ・レポート』を発表しているという事態は、ここまで述べてきたような“ジェンダー平等と資本主義の関係の変化”という枠組みの下で捉える必要がある。
実際、世界経済フォーラムの「ジェンダーギャップ指数(GGI)」の「経済」(「経済的参加と機会」)指標を詳しく見ると、欧米社会で共有されてきた「リーダー的地位に占める女性の割合を増やす”」いう目標を指標化したものであったのだということが確認できる。
すなわち、ごく一般的な(1)「女性労働力率」と(2)「男女間賃金格差」、欧州が1960年代から訴えてきた(3)「同一労働同一賃金」の達成度に加えて、(4)「女性管理職率」と(5)「女性専門職・技術職率」で測定されている。このレポートは2006年から始まっているため「取締役会に占める女性の割合」は指標に含まれていないが、(4)や(5)が入っている点が他のジェンダー指標にはない特徴である。
もはや「経済界 対 運動家」ではない
金融危機後の資本主義の変化のなかで取り込まれていったのは、フェミニズムだけではない。環境運動の一部もまたそうである。環境問題は、グリーン・ニューディールに見られるように、近年新たなビジネスのフロンティアになっているということもあり、環境問題に熱心に取り組むのは運動家だけではなくなっている。数々のベンチャー企業や株主アクティビスト、上場企業のCSR(Corporate Social Responsibility)担当者も環境問題に“真剣に”取り組み、環境運動や女性運動、LGBT運動に注目し、それらの後援を願い出ている。
このなかで「経済界 対 運動家」という二元論は、その一部が掘り崩されている。1990年代にはたしかに「保守的な経済界 対 先進的なフェミニズムや環境運動」は有効な分析枠組みでありえた。
だが、現代社会をこの古い二元的イメージで捉えれば、現状分析を誤る可能性の方が高い。
世界経済フォーラム(本稿で話題にしてきた『グローバル・ジェンダーギャップ・レポート』の発行機関である)は長い間、まさにこの “経済界 対 運動家”という対立が鋭く顕在化する場となってきた。
世界経済フォーラムの前身「ヨーロッパ経営者フォーラム」は1971年に、アメリカ流の経営慣行を欧州にもたらすことを目指して始まり、1987年に「世界経済フォーラム」へと名称を変更して活動をグローバル規模に拡大してきた。年次総会であるダボス会議には、一流グローバル企業1000社の経営トップや、投資家、政治的リーダー、エコノミスト、ジャーナリストらが集まり、グローバルな社会課題について意見を交わす。その様子は毎年世界中で華やかに報道される。
これと同時に、ダボス会議の会場前では世界的な市民運動団体が「反グローバリズム」や「反資本主義」、「反格差」を主要とする多様な主張を掲げて大規模な抗議デモを行ってきており、こちらも1990年代から例年、報道陣の注目を集め、数々の報道がなされてきた。
このようなイメージを共有している現在の中高年層でかつフェミニズムや環境問題などに関心を持つリベラル寄りの人たちにとって、「世界経済フォーラム」は“グローバル資本主義の親玉”といった悪い印象が強い。日本の研究者や識者が、世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数を取り上げて日本社会のジェンダー不平等に警鐘を鳴らしつつ、この指数そのものに対する批判を差し挟むことで「世界経済フォーラム」から距離を取ろうとするという、なんとも煮え切らない態度を取っているのはこのような事情による(ちなみに、私自身もこの「煮え切らない」態度を取っている者の一人なのだが)。
それに対して、現代の若い層でかつ起業や国際貢献に関心を持つ人たちにとって、ダボス会議は、“グローバルな視野で社会課題に取り組もうとしており、実際にその実行力を持っている人たちが集まる場”といったイメージが強まっている。このことは「ダボス会議」の「若者版」を称する会議がいくつも立ち上げられ、盛り上がっていることからも分かる。
若者がダボス会議に良いイメージを持つのは、けっして「無知な若者」が「ネオリベラリズムに踊らされている」からではない。本稿で見てきたように、資本主義の側が、環境運動やフェミニズムの主張のなかの取り入れやすいところだけを取り込んでいくという変化をしているからだ(もちろん、現在のダボス会議や「ウォールストリート」に対して抗議の声を上げているのも多くの若者であるから、単純な“中高年‐対‐若年”という二元論でも整理できないということは、ここで明記しておく)。