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権力への不満は暴力へと転化する

 なぜ短期間にこれほどテロが相次いだのか? それを考える糸口として、昭和初期のテロには以下の3つの特徴があることに着目したい。

(1)テロが次のテロを誘発し、連続して起きる。

(2)国民がテロを「義挙」として称揚する。

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(3)政治家が暴力に脅え、何も言えなくなる。

 この3点を念頭に置きながら、当時を振り返ってみたい。

 暴力による国家改造の動きの背景にあったのは、既存の権力である政党や財閥などへの不満である。主要政党である政友会は三井財閥と、民政党は三菱財閥と密接で、選挙の度に巨額の支援を受けていた。議員たちは事実上、富裕層の利益代弁者でしかなかった。加えて議員の汚職が横行していた。また民政党政権の金輸出解禁、再禁止という迷走の中で財閥はドル買いなどで大儲けをしたのに対し、庶民はインフレによる物価高にあえいでいた。路頭には失業者があふれ、労働争議が頻発した。とりわけ現金収入の少ない農村は、不況の直撃を受けた。わけても東北地方は深刻で、子どもたちは栄養失調で倒れ、娘たちは遊郭に売り飛ばされた。

 こうした現状への不満は、暴力による「革新」、つまりテロの機運へと転化してゆく。

 昭和5年11月、首相の濱口雄幸が右翼青年の佐郷屋留雄に狙撃され、重傷を負った。ロンドン海軍軍縮条約を巡って、条約締結に反対する海軍の条約反対派や右翼、野党だった政友会が、条約締結に踏み切った濱口内閣を「統帥権干犯」、つまり天皇の大権を犯したと言い立てて攻撃するさなかでのテロであった。

保阪正康氏

 昭和6年の「三月事件」は、陸軍中佐の橋本欣五郎ら中堅将校が結成した秘密結社「桜会」が、クーデターにより政党内閣を打倒して軍部政権を樹立しようとの計画であった。政権の首班に目されていた宇垣一成陸相が反対したため流れたのだが、同年10月にも同様の計画があった(十月事件)。これも未遂に終わったが、政党内閣の要人らを殺害する過激な内容を含んでいた。ことに十月事件は、同年9月に発生した満州事変で不拡大方針を取っていた第二次若槻礼次郎内閣が退陣する一因ともなったとされる。

 昭和7年には血盟団事件が起きる。日蓮宗の僧侶、井上日召の思想に感化された青年たちが、「一人一殺」「一殺多生」を唱えて行ったテロである。2月には民政党幹部で前蔵相の井上準之助が小沼正に、三月には三井合名理事長の團琢磨が菱沼五郎によって射殺されている。暗殺された2人以外にも団員たちによって政府首脳や政党、財界の幹部らが狙われていた。

 昭和6年8月26日、東京・青山の日本青年館で「郷詩会」という会合が開催された。ここには国家改造のために身を挺する若手、中堅の軍人や民間右翼が大同団結し、陸軍の青年将校、海軍の革新派士官、北一輝や井上日召に連なる活動家、農本主義者の橘孝三郎らが大集合した。結果的には、のちの血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件に連座する者の顔見せともいうべき集まりとなったのだ。彼らは互いに刺激しあい、テロの機運が盛り上がって行くことになる。(構成:栗原俊雄・毎日新聞記者)

昭和史家研究家・保阪正康氏による「『テロ連鎖』と『動機至純主義』」の全文は、月刊「文藝春秋」2022年9月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

文藝春秋

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「テロ連鎖」と「動機至純主義」