1935年の日本で起きた「天皇機関説事件」とはいったい何だったのか? 立命館大学授業担当講師の秦野裕介氏の新刊『神風頼み』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

「天皇機関説」とはいったい何だったのか? ©iStock.com

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「天皇を機関車にたとえるとは何か!」

 天皇機関説に対して、「天皇を機関車にたとえるとは何か!」と激昂した人がいた、という話がある。実際にそのように言ったかどうかはともかく、天皇機関説とは何か、を理解しないまま天皇機関説を批判していた人々がいたことは想像に難くない。現に浜口首相を狙撃した犯人は「統帥権干犯に腹が立った」と供述したものの、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかったという。

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 これをもって、「統帥権干犯を知らずに浜口を批判したのか」「天皇機関説を知らずに美濃部を批判したのか」と言うのは簡単ではあるが、東大法学部を出た首相補佐官が立憲主義について「学生時代の憲法講義では聞いたことがありません」と発言するような国では、憲法について最低限の知識を持たないことがむしろ当たり前であろう。

 天皇機関説や統帥権干犯を理解していない一般人がいるということよりも、「立憲主義を聞いたことがない」と発言する人物が内閣を支え、憲法改正に携わっていることのほうがはるかに問題であるが、その内閣が歴代最長となったことは記憶に新しい。それだけこの内閣が日本人に支持されてきたという事実は、日本人の立憲主義に関する考え方そのものを示している。こうした憲法の軽視が何をもたらすのか、ここでは「天皇機関説事件」について考えることで見ていくこととしたい。

「天皇機関説」とは突き詰めると、天皇は国家の最高機関である、という学説である。もう少し詳しくいえば日本の統治権は法人としての国家に属し、天皇はその国家の最高機関として統治権を行使する、と考えたものである。伊藤博文の憲法に対する考え方も、突き詰めると天皇機関説に至る。

伊藤博文 ©文藝春秋

 この考え方は、政党の力が増し、議会制度が確立されていく中で大日本帝国憲法を立憲主義的に解釈するために一木喜徳郎や美濃部達吉といった東京帝国大学教授たちによって作り上げられていった。そして政党政治が本格的に始まる中で、天皇機関説は国家公認の考え方として定着していった。

 一方美濃部らの天皇機関説に対して「天皇主権説」という考え方も存在した。天皇主権説では天皇は国家そのものであり、統治権は天皇個人に属するとした。その根底には、天皇は現人神であり、天皇の祖先にあたる天照大神が瓊瓊杵尊に対して与えた「天壌無窮の神勅」に基づいて日本を統治している、という考え方がある。