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ちなみに菊池議員や陸軍の背景にいたのは「原理日本社」の蓑田胸喜らであった。蓑田は津田事件よりも早く美濃部事件でその名を挙げており、在郷軍人会や陸軍との太いパイプを持っていた。津田と異なり、美濃部は蓑田にとってわかりやすい「敵」であった。
陸軍・右翼・政友会からの突き上げに対する落としどころとして、岡田内閣は、司法省に提訴されていた不敬罪については不起訴にし、内務省が関与していた著書の発禁処分を行うことで解決を図った。しかし、喜田事件の再現のような“トカゲの尻尾切り”でことが収まるはずもなかった。
政争の具となった「天皇主権説」
政友会の目的は天皇機関説を葬ることではなかった。岡田内閣そのものが打倒の対象だったのであり、天皇機関説はそのための格好の道具でしかなかった。したがっていくら岡田が譲歩しても岡田内閣への圧力が緩まることはなかった。
一木喜徳郎枢密院議長や金森徳次郎法制局長官が標的となり、林陸相に迫られて8月3日に第一次国体明徴声明を出すことになった。岡田の解説によれば「統治権が天皇に存せずして天皇はこれを行使するための機関なりとなすが如きは、これまったく万邦無比のわが国体の本義にもとるものである」というものであった。
岡田はこの声明で幕引きできるものと思っていたようだが、岡田自身が「大間違いだった」と述べているように、これでも事態は収まらなかった。8月24日には政友会が、27日には在郷軍人会がそれぞれ岡田内閣を批判し、天皇機関説の「芟除(さんじょ・取り除くこと)」を目指した会合を持ち、機関説批判は広がっていった。