魏被告と王受刑者、楊元死刑囚とのつながりは、当時福岡市内にあった『A計画』という、中国人向けインターネットカフェで生まれた。この店はチャットやゲーム、インターネットが自由にできるため、中国人留学生らのたまり場となっていた。
魏被告は03年2月に『A計画』を訪れ、経営者の1人であるKという男と知り合った。そこで同年1月からこの店に来ていた王受刑者を紹介される。また、王受刑者を通じて、後に楊元死刑囚と知り合うことになる。
「近くに住む王亮のお母さんと私は、朝の水泳で知り合いました。それで留学前の子どもどうしが連絡を取るようになったのです」(楊元死刑囚の母親)
「私がばかでした」
中国遼寧省大連の外語学院を卒業後、01年4月に福岡市内の日本語学校に入学。翌年には同市内のコンピュータ専門学校に通い出した魏被告は、留学2年目の出席率は100パーセントで、文科省の奨学金への推薦が検討されるほど真面目な学生だった。
「留学半年目に70万円を送ったら、『パン工場でアルバイトをしているから、もうお金は送らなくていい』と電話してきました」(魏被告の父親)
留学費用として15万人民元(約180万円)を工面してくれた美術工芸会社を経営する両親の負担を気遣う優しさもあった。しかし、異国での生活は魏被告を変えてしまったようだ。
「日本に来て、最初のうちは真面目にやろうと思っていましたが、いろんな物が欲しくなり、友達と遊んだりするようになって、お金をどんどん使うようになっていました」(魏被告)
遊びのため学費まで使い込み、金に困っていた魏被告に、同じく赤字経営のため『A計画』を閉じて金に困っていたKが、強盗の計画を持ちかける。
「当初はKのアルバイト先の店長を襲う計画でしたが、犯行の機会を得られずに断念。そのため、来日直後の中国人留学生に狙いを変えて、03年4月に約28万円を強取しました。また、その後K、王受刑者、楊元死刑囚らとともに、同月だけで2回、侵入盗を行っています」(福岡県警担当記者)
もはや犯罪集団となっていた中国人留学生たち。日本語学校の友人に「日本で貿易の会社を興したい」と語っていた王受刑者は、友人の楊元死刑囚とともに、Aさんの家での強盗殺人を計画。魏被告も加えて実行されたのだった。
「私がばかでした」
私にそう語る魏被告は、一審で何度も「少しでも遺族の慰めになるのなら死刑判決を出してもらいたい」と訴えていた。しかし控訴、上告を行ったのは、周囲から説得され、すべてを明かし、謝罪をするためには時間が必要だということを納得したからである。
また、彼は08年には同被告の元を何度も訪れる福岡市在住の日本人女性(当時69)と養子縁組を結んでいる。
「養子になることはすごく悩みました。両親に申し訳ないと思いました。でも、何度も来てもらい、サインするだけの書類まで送ってこられたので……。私がいまここで元気でいられるのは、日本のみなさんのおかげです」
最後に腰を90度に折り、深々と頭を下げた魏被告。彼は中国の両親に、どのような手紙を出すのだろうか。
追記:魏元死刑囚の死刑が19年末に執行されたことを受け、私は20年になってから中国に住む彼の父親と、通訳を介して電話で話をした。その際に父親は「(魏元死刑囚の)遺骨がいまどこにあるのかは言いたくない。彼から手紙が来たかどうかも、いまはまだ話したくない」と憔悴した声で答えている。