『クッキングパパ』はファンタジーに過ぎないのか?
共働きのカップルが主流になるなかで家事を担当する男性も増えてきつつあるが、その分担をどうするかで揉めることもしばしばだろう。家事をする夫が妻に対して「自分はこれだけやってるんだから、あなたもこれだけやってくれ」と強いプレッシャーをかけたり、あるいは夫婦の収入の差をあげつらって家事労働の分量をドライに決めたりするような殺伐とした話もしばしば聞く(日本社会では構造的な男女の賃金格差が根強いにもかかわらず)。
むむむ……。料理をはじめ家事が「負担」になりうる現実では、『クッキングパパ』の世界はあくまでファンタジーでしかないのだろうか?
ただ、一味はありえないぐらい料理が好きな男とはいえ、『クッキングパパ』の世界でも家事が日常の一部であることには変わりない。そこは一般の家庭と同じである。そしてそのなかで、一味はあくまでも料理を「家族や周囲の人びとを喜ばせられる機会」だと捉えている。その気の持ち方は、ほんの一部だけでも見習えるのではないか。
とりわけこれからの時代、男性にとって家事・育児を「やらなければいけないこと」が増えたと捉えるのではなく、「あたらしい機会」が増えたと捉えることで男性の人生の幅も喜びも増えるのではないだろうか。家事は自分を充足させることもできるものなのだ、と。
実際、一味は家族のためだけでなく、自分ひとりで過ごすときも料理を楽しんでいるし、凝った料理をするにはじゅうぶんな時間がない場面では、いまでいうところの「時短レシピ」で「負担」を減らすような現実的な工夫もしている。
一味は家族・友人やご近所、同じ会社に勤める仲間だけでなく、街で偶然出くわした事情ありの人びとにも料理を振る舞うおそるべき男だが、僕がとくに好きなのは近所のおじいちゃんたちを生徒にした料理教室を趣味で開いているところだ。
妻に先立たれた熟年男性たちが、家事ができずに生活に困窮するなんて社会問題も聞くが、一味はその点、リタイアした爺たちの日常を料理によって充実したものへと変えていく。めっちゃリアルに社会貢献……!
また、かつては料理下手だった妻・虹子が、巻が進むほどに料理上手になったのは、どんなに手際が悪かろうと、アイデア重視の彼女の料理が変わったものであろうと、一味が「うまい!!」、「お前は料理の才能があるっ!」と全力で肯定してきたことが大きい。
『クッキングパパ』にあるのは、「男も家事・育児を負担せねばならない」という義務感ではなく、男だって誰だって家事や育児を楽しむことができる、というシンプルで前向きな提案だ。
長く読んでいるファンにはおなじみだろうが、コミックスには作者・うえやまとちの「料理って楽しいんですよーっ!」という朗らかすぎるコメントが毎巻寄せられている……30年以上ずっと。その精神を分けてもらうことはきっと、そんなに難しいことではない。そう感じさせるエネルギーが『クッキングパパ』にはある。
※時代とともに変化していく職場の描写、知られざる荒岩一味の過去……、続きは『ニュー・ダッド ――あたらしい時代のあたらしいおっさん』(筑摩書房)に収録されています。