――執念の域。この写真を撮れたとき、周囲の反応はいかがでしたか?
金武 ありがたいことにカメラ雑誌で特集を組んでもらえたり、新聞やテレビでも紹介されたりするなど、活動の場が広がりました。
しかし、そこでも一筋縄では行かなくて。ある大御所の写真家に僕の写真を見せたら、「こんなの写真じゃねえ、花火じゃねえよ」と目の前で写真をビリビリに破かれました。これはキツかったですね。
でも、この話には後日談もあって。その写真家の先生に数年後、ある花火大会で偶然にも再会したんです。写真を破った記憶はすっかり忘れているようで、しかもその花火大会の写真を撮り忘れたと言います。
僕の写真を融通してほしいと頼まれるわけですが、当時はフィルム撮影なので現像までに時間がかかります。そこで過去に撮りためていた福田式の写真を恐る恐る持っていったところ、「こんないい写真、なんで今まで持ってこなかったんだ!」と言われてしまいました。なんて自分に都合のいい人なんだと(笑)。
情熱が42年も続いた理由とは
――病気や同業者からの批判など数々の困難を乗り越えて、42年間も「花火を撮る」ことに情熱を燃やした金武さん。その原動力はどこからくるのですか?
金武 やっぱり病気の存在が大きいと思う。小さい頃、喘息の発作が起きるたびに、ヒューヒューと苦しくなって。1回発作が起きてしまうと、すぐには治らない。だから子ども心にいつも死を意識していて、「40歳までは生きられないんじゃないか」と思っていました。
でもね、薬を飲んで治して、また再発して……ということを延々と繰り返していくと、「なんとかなるだろう」という楽観と、「死んでしまうのではないか」という悲観の気持ちの両方を抱えるようになったんです。
生きることに対する執着と、なんとかなるという楽観を抱くようになったのは、そうした経験があったからかなぁ。
――最後に、今後チャレンジしたいことを教えてください。
金武 今考えているのは、「手筒花火」を撮影できる写真家を育てることです。手筒花火は2006年から僕が撮り続けているライフワークのようなもの。愛知県豊橋市の名物で、花火の揚げ手が筒をまるごと抱えて、巨大な火柱を噴出させるのが特徴です。
実はこの揚げ手たちは、日頃は会社員や商店店主、学生などの一般の市民たちです。せっかくの晴れ舞台だから、全員の姿を残したいけど、僕が残せるのはごく一部だけ。
自分の写真が残っていないという人がたくさんいて、それでは寂しいなと。そこで今年から始めたのが、揚げ手全員の写真を撮ろうというプロジェクトなんです。
僕も来年には60歳。これから5年、10年経ったときにカメラやパソコンを今のように扱えるかわからない。地元の名物花火やそれを担う人たちを、地元の人が記録できるような状況を作らなきゃいけないと考えているところです。
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。