たまたま兄弟だった
麓 ところで、カシオ計算機といえば樫尾一族というイメージがありまして、事実、長男でいらっしゃる社長を筆頭に、専務に次男の俊雄さん(開発担当)と三男の和雄さん(営業担当)、常務に四男の幸雄さん(技術本部長)の四兄弟がトップにおられ、そしてお父さん(樫尾茂氏)が会長というわけですが、3本の矢ならぬ4本の矢の強味は当然、経営に生かされているんでしょうな。
樫尾 カシオは技術を持っている、とかの言葉を頂戴するんですけども、事業の基本はやっぱり人だと思うんです。ところが、企業が小規模なうちは、人を集めたいと思ってもなかなか集まらない。そうして集まった4人、これがたまたま兄弟だったというにすぎないんですね。だから、これまたカシオにとってラッキーだったとしか申し上げられないんです。
われわれの場合、まず工場で経営が始まったわけですが(昭和21年、前身の樫尾製作所設立)、企業として存続してゆくためにどうすればいいのかを考えましたね。誰でも作れるような物を作ったんではしょうがない、存在価値のある、社会の役に立てるものを作らなきゃ意味がないわけです。すると、基本は創造力を持った人間が開発にあたることになるんですが、その適任者としてウチの次男がいたということですね。彼はこの仕事をやるために生まれてきたような男で(笑)、どこを探してもいない貴重な人物ですよ。
3番目は非常に積極果敢な営業センスを持っている。四男坊は細かいことを設計するのが得意なんですよ。終戦の年に大学を出たんですが、卒業論文のテーマに飛行機エンジンの設計というのを提出したほどなんです。それに私自身はというと、技術屋として非常に優れてはいないけど、試作品ぐらいは作れる能力を持っていた(笑)。
ですから、経営者としては「天祐」なんて言葉は遣いたくないんだけど、創業時に必要な人材がたまたま兄弟であったというのは、つくづく幸運だったと思います。ただ、4人で始めたものが、いま従業員3500人ぐらいになっておりますが、4人が兄弟であることのメリットは樫尾製作所時代の話でして、その後は優秀な人材に恵まれましたね。この人がいなかったらあの商品は生まれなかった、というケースはしょっちゅうです。
同窓会では「戦死」扱い
麓 戦前の町工場には職人気質の親父さんがいましてね、自分で工作機械をいじったりして、人と工場が一体になったような雰囲気がありましたよね。昔は村々にあった鍛冶屋さんに代わって、各地に出来たこういう町工場の技術の高さが、今の日本経済の強さの一つだといわれているわけですけど、樫尾さんの場合、町工場から出発して一つの大きな山を築かれた。そんな経歴を見てますと、松下幸之助さんに似てらっしゃるんですね。
樫尾 いやいや、松下さんとは全然比較されるような立場じゃないんで、これは先方がえらい迷惑でしょう。
ところでこんなことがあったんですよ。私は両親に連れられて高知から上京したんですが、小学校時代は荒川区に住んでまして、47年ぶりの同窓会に私が出たのは、やっと2年前のことですよ。というのは、小学校の同級生の間では、私は戦死したことになっていましてね、2年前に級友の加太こうじ君(作家。『黄金バット』などの紙芝居作者)が「ひょっとしてカシオ計算機の社長は同じ組にいた樫尾じゃないか」と電話をかけてきてくれて、ようやく生き返った(笑)。
麓 大正6年のお生まれだと戦地にいらしたんでしょう。
樫尾 いえ、兵隊検査は荒川区で受けたんですが、身体が細いのでいけませんでした。そのあと20年に三鷹に引越した際に、本籍を住民票と一緒に持ってきちゃったものだから、みんな戦死したと思い込んだんですね。
麓 そういう時代でしたよね。
樫尾 で、その同窓会で「そういえば樫尾君は手工が得意だった」という話が出たんです。その時にも言ったんですけど、手工が上手だと技術屋には向いてるかもしれないが、経営に向いてるとは限らない。カシオ計算機とは関係ないよ、と。
いずれにしましても、同窓会に出てみてわかったんですが、同級生の3分の1がもうこの世にいないんですね。われわれは二・二六事件の年に兵隊検査を受けたんですが、戦死した者も多いし、この年になると病気で亡くなったり……ちょっと寂しい思いをしました。私もあと1年、戦争が長引いてたら、おそらく戦地に出てたでしょうな。
ウチの“発明者”という綽名の次男坊は、終戦の年の7月半ばに現役で新潟に入隊したんですよ。通信兵でいて、特攻機に乗り込む予定だったなんて言ってたね。危いところだった。
麓 ついてるんですね。私なんかも戦争末期の世代ですけど、何分かの差で空襲で死ぬとこだったんですよ。
しかしある意味では、こういう4人息子を生んでくれたご両親もまた、結果的には成功者ということになりますね。
樫尾 そうかもしれません。私たち兄弟が力を合わしてこれたのも、親父が必死に働き、おふくろは内職までして育ててくれたお蔭ですね。そういう両親の姿を見てると、知らず知らずのうちに、少しでも楽させてやりたい、兄弟は睦まじくしなきゃいけない、という考え方になってゆくんです。