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〈解説〉樫尾四兄弟が夢見た技術立国

ジャーナリスト・大西康之

 

 カシオ計算機が半導体の進歩に大きく貢献したことはあまり知られていない。人類を月に送るアポロ計画のため、真空管に代わる電子部品として生み出された半導体。当時は軍需が大半で民生の需要はほとんどなかった。

 半導体の大量生産、大量消費に道を開いたのは電卓であり、それを世界に普及させたのは、本邦のカシオ計算機とシャープである。1971年に日本で生産された半導体の実に40%が電卓に使われた。コンピューター用は26%に過ぎない。

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 1960年代の半ばから70年代の半ばにかけて、カシオとシャープが火花を散らした「電卓戦争」。両社の激烈な開発・価格競争により、電卓の重さはわずか十数年で384分の1、価格は63分の1にまで下がった。

 カシオを率いたのはマネジメントが得意な長男の忠雄、二男でアイデアマンの俊雄、三男で生まれながらの営業マン和雄、四男で手先の器用な幸雄の「樫尾四兄弟」だった。対するシャープにはアポロ向け半導体の開発に携わった天才エンジニア「ロケット・ササキ」こと専務の佐々木正がいた。

アポロ計画によって半導体の開発が進んだ ©NASA

 もともと神戸工業(現デンソーテン)にいた佐々木は、シャープ創業者の早川徳次に三顧の礼で迎えられ、世界初のオールMOS(金属酸化膜)-LSI(大規模集積回路)電卓「QT-8D」を開発する。QT-8D(1969年発売)にアポロ宇宙船で使われた最先端の半導体であるMOS-LSIを使うことで、シャープは電卓の価格を35万円から9万9800円に引き下げた。

 そこで、樫尾四兄弟が繰り出したのは、計算能力を12桁から6桁に落として値段を1万2800円にするという奇策だった。「6桁の電卓などおもちゃに過ぎない」。シャープをはじめとするライバル各社は一笑に付したが、消費者は熱狂した。

 6桁は10万円、12桁なら1000億円である。「1000億円台の計算など、大企業の社長でも滅多にしない。個人商店なら6桁10万円台で事足りるはずだ」。四兄弟の読みはまんまと当たった。

 1972年に発売された「カシオミニ」は「答え一発」のキャッチフレーズとともに全国津々浦々に浸透した。商店街の店主がそろばんを電卓に持ち替えたのだ。電卓の販路として全国の文房具店を組織化したのは三男の和雄だった。

 戦後、日本中が朝鮮特需に沸いたころ、「電子計算機」の開発に没頭していた樫尾四兄弟は変人扱いされた。ライバルだったシャープの佐々木もまた、会社という枠にとらわれない突き抜けた男だった。8ミリ角の半導体に命をかけた樫尾四兄弟や佐々木が礎を築いた電子立国日本は、今まさに落日の時を迎えている。

 1983年のインタビューで樫尾四兄弟の長兄、忠雄はこう語っている。「まあ、これからの日本は技術立国でゆくしかないですね」。しかし35年後の今、その技術が揺らいでいる。