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 その“ありったけのリアリティー”を作品に与えるために宮崎駿が監督に抜擢したのが『魔女の宅急便』や『火垂るの墓』で作画監督を務めたアニメーターの近藤喜文であった。

 宮崎駿をして自分にはできないリアルが描けるのは近藤喜文しかいないと言わしめ、宮崎監督の『となりのトトロ』と高畑監督の『火垂るの墓』の同時製作の際には、宮崎駿と高畑勲が「近ちゃんがいなければ作れない」と両者がスタッフとして奪い合ったほどの逸材だった。『耳をすませば』はジブリ映画としては初めて宮崎駿、高畑勲以外の監督で製作された作品なのである。

 こうして監督近藤喜文、宮崎駿自身は脚本と絵コンテにまわり『耳をすませば』の製作が始まる。

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「それまでのジブリ作品」と違っていたのは監督だけでなく…

 本作がそれまでのジブリ作品と違っていたのは監督だけでなく、「小品」を目指した映画でもあった。

 宮崎駿は予算もほどほどでスタッフが疲弊せず、“早く、安く、うまく”作れる「佳作小品シリーズ第1作」と本作を名付け、上映時間も90分程度、公開する上映館もミニシアターなどに絞るようプランが考えられた。

 また、それまでのジブリの絵コンテは、コマのサイズがほかのアニメーション会社よりもひと回り大きく作られ、そのままレイアウトに使えるように精度の高い描き込みができるものだったが、宮崎駿はそれをテレビ用に小さくし、細かい書き込みができないようにして作画にかける時間を短縮できるようにした。

 

「こんな小さいコマには描けない!」

 しかし製作がはじまるとそのプランを破る者が現れる。宮崎駿である。

 絵コンテを描き始めたものの、「こんな小さいコマには描けない!」と言って、結局は大きいコマに戻ってしまう。こうしていつものように製作は遅れだし、90分の上映時間は延びていき、小品と謳った作品はどんどん大きな作品となっていった。

思春期の「“全てが可能性の固まり”と“世界で自分が一番不幸だ”のはざま」

 また絵コンテと脚本に回っていた宮崎駿だったが、雫の小説世界である通称「バロンのくれた物語」のシーンを自ら演出している。

 当然、監督である近藤喜文は、製作中に宮崎駿と演出などで意見を激しく対立させた。なかでも、本作の重心でもある『カントリー・ロード』の日本語訳歌詞については宮崎案と元の案を支持する近藤とで怒鳴り合いのケンカにまでなったという。