「もう限界ですよ」
小川監督は我慢の起用を重ねる中で、親しい関係者にこう漏らす時期もあった。
星野監督も信頼したコーチの叱責
村上はそれでも、ミスは犯してもそれを挽回するようにスタンドに放物線を描いた。宮本氏が「すごいなと思うのは(スタメンから)外そうかという時に打つこと」と感心すれば、上田氏も「こんだけエラーして次の打席でガーンと打つから、お前どんな神経してんだ、と」と逆境でこそ発揮した勝負強さに舌を巻いた。
最終的には高校出2年目以内では中西太(西鉄)に並ぶ最多36本塁打を放った。チームでただ1人、全試合に出場した。それも、グラウンド以外でのプレッシャーをはね返しながらである。
開幕スタメンに反対した宮本氏には、村上の起用は「特別対応をした」との思いが強かった。それゆえ、ことさら村上には厳しく当たった。
宮本氏は08年北京五輪日本代表で星野仙一監督の信頼を受け、主将に指名された。母校のPL学園高仕込みの規律や礼儀、ヤクルトでは野村克也元監督に薫陶を受けたプロ意識など、時に周囲から煙たがれるほどの厳格さは球界で知れ渡っている。村上はそのターゲットになった。
「優遇されている選手にはより厳しくしないと(チームの)和を保てない。こと細かく、うるさく話をした。やり過ぎと言われるぐらいやった」
時に本人を呼び出し、叱責した。今でも宮本氏が「(村上は)僕のこと嫌いだと思う」と公言するほどの徹底ぶりだった。
青木には身だしなみまで注意された
さらに、チームの先輩の青木宣親からは言葉遣い、身だしなみに至るまで事細かく注意された。ヤクルトにとどまらず、東京五輪の日本代表でも4番で打ってほしいとの期待からだった。
「宮本さんだけではなく、青木さんからも……。あれだけいろいろな人から言われると、僕なら萎えてプレーどころではなくなる。でも、村上はめげることがなかった。ベンチでは誰よりも声を出してもいた」(ヤクルトの同僚野手)