編集が休むようになって気づいた「時代の変化」
――そういったモーレツ時代が変わってきたな、と感じた瞬間はありますか?
柴田 担当編集の働き方に、時代の変化を感じますね。みんな土曜日は休んでいて、電話もしない。連絡手段も電話からLINEに。最近では打ち合わせもリモートに変わりました。
昔が異常だったんでしょうね。かつて編集者は四六時中、作家にへばりついているのがステータスだった時代がありました。
――部屋の隅で、原稿を描き終わるまで待っているみたいな。
柴田 そう! なぜか作家のほうが「編集が待つための部屋」を用意しなきゃいけない時代があったんです。でも女性漫画家も年々増えてきたので、いつの間にかそういった文化は消滅しましたね。
私がバリバリ描いていた時代は、本当に厳しかったんです。時間がなくて、移動中の新幹線や飛行機の中で描くのも当たり前。最終的に、出版社が会社のそばのホテルに缶詰部屋を用意してくれたり。私は絶対にホテルで描くのは嫌だったから回避したけど、担当編集も原稿を落とせば、編集長からひどく怒られる時代ですからね。みんなとにかく必死でした。
――多いときで、担当編集は何人いたんですか?
柴田 月刊ジャンプ、なかよし、週刊スピリッツ、週刊ファミ通、月刊少年ガンガン、アニメージュ、月刊ファミ通ブロス、Amieだから……7〜8人くらい? みんな地縛霊のように「先生、描いてください」「描いてくださ〜い」って、毎日“取り立て”を受けていましたね(笑)。
その頃は、本当に健康よりも仕事でした。ある日、歌舞伎町で酔っ払って、10cmのピンヒールを履いているときに転んじゃったことがあるんです。骨折や捻挫もしていなかったし、描かなきゃいけない原稿もあったから、そのまま歩いて帰宅しました。
そしたら日を追うごとに、どんどん足の色がおかしくなって。上等なメロンの筋みたいなものが入り始めたんです。慌てて病院に行ったら、「即手術が必要だ」と言われて。
でも、まだ原稿が残っていたので一度病院を抜け出して、それを描き上げてから病院に戻りました。そしたら院長先生から「あともう1日手術が遅れていたら脚切断だったよ!」とカンカンに怒られました。そりゃそうですよね。いろんな意味で、今だったらあり得ないですよね。それくらい原稿に必死でした。
柴田亜美
長崎県出身。『南国少年パプワくん』『ジバクくん』『PAPUWA』などの作品がTVアニメ化され、これまでの著書は累計発行部数2,000万部を超えている。2021年には「KOMIYAMA TOKYO」から画家としてデビューした。
写真=深野未季/文藝春秋
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