総部数600万部超えの人気作『南国少年パプワくん』などを代表作に持つ柴田亜美さんだが、実は昨年には画家としてデビューを果たした。
55歳にして「新人画家1年目」だと目を輝かせる柴田さんに「漫画家になった経緯」や「画家に転身した理由」など、そのユニークなキャリアについて話を聞いた。(全3回の2回目/#1、#3を読む)
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こんな天才がいるんだったら画家なんて到底無理!
――武蔵野美術大学短期大学部卒。具体的に、美術系への道を意識し始めた時期はいつですか?
柴田 美大を意識し始めたのは高校生の頃です。母はスンナリ賛成してくれたのですが、父が変わり者で。父は長崎の大学病院に勤務する脳外科医で、研究や論文の忙しさを理由に、子育てはからっきし。私が生まれた直後も家族を置いて、NASAのアポロ計画の医学チームに参加するためにいきなり渡米したくらいです(笑)。
高2の時に美大受験予備校の講習会費と旅費も「自分で稼げ」と言われて、父の病院の実験動物の世話係としてバイトすることになりました。生き物を扱う仕事なので、クリスマスも正月もまったく休みがありませんでしたね。
――なんでそんな大変な仕事を……?
柴田 大変な仕事を与えたら、美大をあきらめると思ったんじゃないでしょうか(笑)。しんどかったですが、なんとかお金を貯めて、長崎から愛知の河合塾美術研究所に通うことができました。それでも親は一銭も出してくれないし、交通費もかさんでカツカツだったので、文字通り、毎日パンの耳をかじる生活でしたね。
――そして東京の美大へ。
柴田 美大に合格してようやく仕送りも貰えるようになったし、いろんなバイトもできて、生活はかなりマシになりました。毎日、好きな絵を描く生活は、すごく楽しかったですね。
でも画家は早々にあきらめました。だって、後に日本美術界のトップに入る“諏訪敦”という天才に出会ったから。「こんな天才がいるんだったら画家なんて到底無理だわ!」と筆をバキバキに折りましたね(笑)。
――夢が破れたと。
柴田 はい。それでも、やっぱり絵に携わる仕事をしたかったので、次は画廊で働いてみたんです。ただ絵の世界は本当に厳しいという現実を突きつけられて。ますます自分が絵で食べていくのは夢物語だと痛感して、半年で辞めてしまいました。
それから3ヶ月くらいバイト生活をしていたら、学会で東京に来ていた父親に「君は何をしたいの?」とボソリと聞かれたんです。それでムカついて、まずはどこかの会社に就職しようと思って、リクルートのイラストレーターの採用試験を受けに行きました。