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「死ぬリスクを負ってまで、行く意味とは」野口聡一が“宇宙飛行の意味”を考えるようになった空中分解事故

2022/09/17
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 幸い遮熱装置は外れず、カプセルは大西洋上で無事、回収される。地球への帰還後、渡された質問表の最後の一問は「今日いつもとは違ったことがあったか」。

 グレン氏は密かな自負と安堵を込めてこう記す。「宇宙でも平常な一日でした」。

「ほんとうに苦しんだのは徹頭徹尾、対人関係である」

 1962年4月号
 宇宙開発の最高殊勲チーム
 糸川英夫(東大生産技術研究所教授)

糸川英夫氏

 実は冒頭のグレン中佐の地球周回(マーキュリー計画)は、故障や悪天候で11回も延期されている。「〈度重なる延期が〉世界中の新聞で叩かれているときに、他人ごとではなく心から同情せざるを得なかった」(〈 〉内は引用者注、以下同)と綴ったのは、1950年代半ば、東京大学生産技術研究所を拠点にロケット研究を開始した「日本の宇宙開発の父」、糸川英夫博士だ。

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 糸川氏らが開発した初めての本格的な地球観測用ロケット「カッパロケット〈記事中ではカッパー〉」の開発で糸川氏が最も苦心したのは、意外にも「対人関係」だったという。

研究者が、科学的な、或いは技術的な難問に立ち向うのは苦しみではない。楽しみである。(中略)ほんとうに苦しんだのはこんなことではなくて、徹頭徹尾、対人関係である。人と人とのふれ合いによって生ずる誤解と意見の不一致である

 糸川氏が味わった「煉獄の苦しみの連続」は、大勢のチームで研究を進めたがゆえに生じたものだった。だが糸川氏は、「ロケットの研究は始めから性格的にチーム研究をとるべきであった」と断言する。なぜなら、日本では誰も成功経験のない研究分野であり、知恵を寄せ合いながら手探りで進むほかなかったからだ。

 最初のペンシルロケットは青空に飛び立つ代わりに、発射台を滑り落ち、砂上を這い回った。そして研究チームが命運をかけたカッパ6型4号機は、1958年6月、ついに初の宇宙観測に成功する。このロケットも1~3号機の連続失敗や、それによる世間の批判に耐えて成功に漕ぎつけたのだった。

 悲喜こもごもの年月を振り返る糸川氏の次の言葉には、感慨と未来への期待が込められている。