幸い遮熱装置は外れず、カプセルは大西洋上で無事、回収される。地球への帰還後、渡された質問表の最後の一問は「今日いつもとは違ったことがあったか」。
グレン氏は密かな自負と安堵を込めてこう記す。「宇宙でも平常な一日でした」。
「ほんとうに苦しんだのは徹頭徹尾、対人関係である」
1962年4月号
宇宙開発の最高殊勲チーム
糸川英夫(東大生産技術研究所教授)
実は冒頭のグレン中佐の地球周回(マーキュリー計画)は、故障や悪天候で11回も延期されている。「〈度重なる延期が〉世界中の新聞で叩かれているときに、他人ごとではなく心から同情せざるを得なかった」(〈 〉内は引用者注、以下同)と綴ったのは、1950年代半ば、東京大学生産技術研究所を拠点にロケット研究を開始した「日本の宇宙開発の父」、糸川英夫博士だ。
糸川氏らが開発した初めての本格的な地球観測用ロケット「カッパロケット〈記事中ではカッパー〉」の開発で糸川氏が最も苦心したのは、意外にも「対人関係」だったという。
「研究者が、科学的な、或いは技術的な難問に立ち向うのは苦しみではない。楽しみである。(中略)ほんとうに苦しんだのはこんなことではなくて、徹頭徹尾、対人関係である。人と人とのふれ合いによって生ずる誤解と意見の不一致である」
糸川氏が味わった「煉獄の苦しみの連続」は、大勢のチームで研究を進めたがゆえに生じたものだった。だが糸川氏は、「ロケットの研究は始めから性格的にチーム研究をとるべきであった」と断言する。なぜなら、日本では誰も成功経験のない研究分野であり、知恵を寄せ合いながら手探りで進むほかなかったからだ。
最初のペンシルロケットは青空に飛び立つ代わりに、発射台を滑り落ち、砂上を這い回った。そして研究チームが命運をかけたカッパ6型4号機は、1958年6月、ついに初の宇宙観測に成功する。このロケットも1~3号機の連続失敗や、それによる世間の批判に耐えて成功に漕ぎつけたのだった。
悲喜こもごもの年月を振り返る糸川氏の次の言葉には、感慨と未来への期待が込められている。