担当教授の誘いを機に、大手広告代理店の内定を蹴って、映画業界の現場に踏み入れた林美千代さん。最初はアメリカの制作現場で働けると思った彼女だったが、ロケ場所は「アメリカ」ではなく、なんと「アフリカ」だった。
「お前は無価値だ」と言われるような厳しい環境でも、彼女が逃げ出さなかった理由とは? のちに世界最高峰のエンターテインメント企業、ウォルト・ディズ
ニー・ジャパンなどで魅力的なコンテンツを次々と成功に導き、独立後は「ゴジラ」「ウルトラマン」「竜とそばかすの姫」など、日本が誇る傑作の世界に向けてのブランディングを手掛けることになる林さんの新刊『「超」ブランディングで世界を変える 挑戦から学ぶエンタメ流仕事術』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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才能豊かな人は頭の中で旅をする
高校2年の夏休み、私は日本大学芸術学部に進学することを心に決めます。
扇風機の回るベッドでゴロゴロと寝転がってアニメ雑誌『アニメージュ』を読んでいると、大好きな『機動戦士ガンダム』の富野由悠季総監督(当時は富野喜幸)の記事のプロフィールに目が留まりました。
「日大芸術学部映画学科卒業……。これだ!」
子どもの頃から私は、自分でこうと決めたら突き進むのみ。進学校だったので芸術系の進路を選択するのは異例で、親も先生も戸惑っていましたが、当時はアニメの専門学校も見当たらず、アニメを学ぶためにはここしかないという強い思いがあったのです。
その意志を貫いて日芸の映画学科監督コースに入学すると、そこに集まった25人の同級生は私なんて足元にも及ばない筋金入りのユニークな人たちばかり。想像以上に自由でクリエイティブで、振り切れた人たちが集まっていました。女子はそのうちたったの4人。入試の面接でも「女の子は映画監督にはなれないよ」と言われるような時代でした。
いざ授業が始まると、最初は主に日常のドキュメンタリーやドラマを制作することが課題となりました。これが思っていた以上に面白い。アニメを学びたくて入学したはずなのに、いつの間にか実写の魅力にひきこまれていました。
ただ、現場で課題作品の制作に携わるほどに、映画監督や演出家になることを目指して入学してきた同級生たちのセンスに目を見張りました。圧倒的な数の映画を観て、自分なりの確固たる世界をイメージできている彼らと、アニメ業界を志向していた私では明らかに熱量が違いましたし、なによりも彼らの撮る作品は抜群にバカバカしく、面白かった。いつも素直に「すごいなぁ」と感動させられることばかりなのです。
私は帰国子女でみんなが知らない世界を経験しているし、大好きなアニメや漫画、小説を通して、誰よりも想像力や読解力を磨いてきたという自負はありました。でも、才能豊かな友人たちは、どこで暮らしたか、何を見てきたかなどとは関係なく、頭の中で自由に旅をすることができるのです。
私は上質な「物語」によって様々な世界に連れて行ってもらっていましたが、彼らは頭の中でゼロから独自の世界を創り出していると思い知らされました。
そもそも、私には自分の監督した作品をなんとしてでも世に出したいというギラギラした野心のようなものがありません。学年が進むほどに、自分は監督には向かないな、と思うようになっていきました。
「私は作る側ではなく、才能豊かな人の作品づくりを支える仕事をしたい。映画界だったら、やっぱりアメリカで仕事してみたい」