強者が駆動させる資本主義、弱者が駆動させる民主主義
成田 この本の範囲では、たぶんすごく常識的で、ナイーブな整理の仕方をしています。プラトンがかつて言っていたようなタイプの整理をほぼそのまま持ってきている。ざっくりと説明しますと、資本主義的な仕組みというのは、つよくて賢い者によって駆動されるような、社会の動かし方です。つまり、アイデアや知恵や資源をもつ者が事業を始めだして、そこから生まれた収益が私的財産権みたいなものにしっかり守られていて、さらに資本市場の力をかませて再投資されていくと、富める者がますます富んでいくような傾向になっている。ある意味で異常値をもった強者によって駆動される仕組みが資本主義です。ただ、当然それは人がたまたま生まれ持った才能や運をものすごく増幅してしまう仕組みなので、ほっておくとそこから零れ落ちたものたちが生まれてくる。
そういう人びとが立ち上がって資本主義に対するカウンターカルチャーとして作り上げるような社会の仕組みが、民主主義的な政治制度なのではないかと。あらゆる人を、少なくとも名目的にはちゃんと包摂して、ちゃんと共存していくことを重視する。人間のもっている才能とか、資産みたいなものとは独立した個人という単位を作り出して、あらゆる個人に同じ力や声を与える。弱者によって、平均値によって駆動されるのが民主主義の仕組みとなっている。そういう意味で、資本主義は強者によって駆動され、格差をどう作り出していくかという仕組みであるとするならば、民主主義はむしろ、そこで生まれる格差に対するある種の緩衝材を提供する仕組みとして整理できる、という視点をこの本ではとっています。
先崎 弱者と強者みたいな差がないと資本主義はそもそもなりたたないわけですよね。欲望というキーワードでいうなら、常に差をつくり、消費とか流行によって刺激を生み出したりしている。そういう意味では、政治制度としては自由主義のほうに近づいていく。一方で民主主義というのは、平等を担保する。そこのところのかみ合わせに対応しながら、今まではシステム運営をしてきたということなんですよね。
ところで、この民主主義というのは一見平等を目指しているように見えますけど、実は戦前の一時期には日本社会においてテロを引き起こす原因にもなっていたんですね。まさに今日と同じ意味でのテロ事件によって、当時の首相が暗殺された事件が過去にありました。戦前は、国民は天皇のもとの赤子であると言われていたわけですが、その事件の犯人が言ったことはですね、ひとはみんな平等であると、戦前ですから天皇のもとの赤子であるという意味ですが、それなのにこの落差はいったいなんなんだ、というのが犯人の怒りの駆動因、あるいはそれを説明する原理として使われるんですね。民主主義は実はそういう恐ろしい一面も持っている。
成田さんからすると、資本主義と民主主義がアクセルとブレーキをやっていたような状況が、現代ではうまくいかなくなっているというのが大きな危機意識としてあると思うのですが、そのあたりはどうお考えでしょうか。