倉本寿彦は、希望だ。横浜DeNAベイスターズにやってきた社会人ナンバーワンショートに誰もが胸を躍らせた。背番号「5」をつけた希望の光は、まだ発展途上だったチームを柔らかく照らして、私たちに変化を予感させた。ベイスターズは変わる。強くなる。
圧倒的な華があるのだ。それは野球を全く知らない人をも一瞬で虜にするような、魔力のような華。多くを語らず、表情は常に一定で、浮かれず、落ち込まず、ファンに感情を見せつけるタイプではない。ある人にとってはそれが少し物足りなく感じ、ある人には胸を抉るのに十分なインパクトだった。分水嶺のように異なる流れのその真ん中で、倉本はいつも平然と野球をしているように見えた。未だ出会ったことのないこの不思議な存在に取り憑かれるように、私は文春野球に倉本のコラムを書き続けた。しかし書いても書いても、その分水嶺にはたどり着けなかった。希望の光は掴もうとするとふわりと逃げていく。誰か私に、倉本寿彦を教えてください。
あなたは本当の倉本寿彦を知っていますか?
「決まって帰宅が一番遅いのが倉本選手」
「倉本寿彦選手と初めて出会ったのは2007年6月。夏の神奈川大会を前に横浜高校のグラウンドに伺った時、倉本選手が高校2年生の時でした。野球の要素全てにバランスの取れた選手という記憶はあったのですが、まさか8年後プロ野球の世界、しかもベイスターズで再会するとは。私が高まる思いで話しかけると倉本選手はニヤリと微笑み『あ、お久しぶりです』と高校時代と変わらぬマイペース」
横浜高校時代の倉本を取材していたtvk吉井アナはそう振り返る。その頃の倉本はまだレギュラーを掴み切れてはいなかった。一学年下には当時既に高校球界のスターだった筒香がいる。「お前には無理だ」と言われた横浜高校に進学し、怪物たちの中で血の滲むような努力をしてレギュラーを掴み、渡辺元智監督(当時)に「お前がプロに入ると思わなかった」と驚かれながら、ルーキーで開幕戦ショートスタメンの座を掴んだ。倉本の「華」は、周囲の評価を一つ一つ覆すことで彼自身が丹念に育て上げたものだった。
「コロナ禍前、試合後のぶら下がり取材ができた時期、駐車場で選手を待つのですが、決まって帰宅が一番遅いのが倉本選手。ナイター後、2時間ぐらい出てこない時もあり、他の記者や選手も引き上げ、ひとり暗い駐車場で待つ日が少なからずありました。ようやく姿を現した時は、まるで恋人に出会えたような嬉しさ。そんなときは優しい笑みを見せ『まだ待ってたんすか!?』と、いろいろ誌面に書けない話も含めゆっくりしゃべってくれるのは嬉しかった。終電終わってましたけどね(笑)。クールに見えますが、待たされたとしてもぜんぜん許せる愛嬌の良さがあるのです。きっと試合後にバットを振るなど練習をしていたのでしょうけど、いつだか横浜高校の後輩である乙坂智選手に『倉本さん試合後なにしてんすかね?』と訊くと『ああ、倉本さん、どこにいるかわからないんですよ』と。謎深き選手です」
ベイスターズを長く取材しているライターの石塚隆は言う。同僚をもってしても解明できないミステリアスさを持ちながら、その根本はチャーミング。憧れの存在である石井琢朗タオルを掲げている時の倉本は、我々と同じファンの顔を覗かせたりするからたまらない。しかしひとたび試合となれば、倉本は勝負の鬼となる。石塚は続ける。
「 21年、ヘッドスラインディングで左薬指負傷して、意外にも治癒まで3カ月かかってしまった。その時に『まわりから危ないからやめろと言われていたんですが、ここで1点と思うとどうしても行っちゃうんですよ。ケガをした後はフラッシュバックするというか怖さがあったんですけど、でも……ここ一番は行っちゃうと思いますね』と話していて、実際、負傷後の試合でヘッスラしていました。是非は別にしてハートフルな選手なんです」