「志半ばで命尽きるはずがない」
冷静さを取り戻すために、何度も自分にそう言い聞かせた。第1次政権の退陣直後、失意による自殺説が流れたことがあった。その時も安倍は入院先からこっそり電話に出て、か細い声で応じた。きっとあの時と同じだ。「本当に大変だった。危ないところだった」と軽口を叩くに違いない。藁にもすがる想いで電話を鳴らし続けたが、二度と通じることはなかった。
警察への不満を口に
今になって安倍とは寿命や運命の話をしたことが思い出される。
「親父(晋太郎)は67歳で亡くなって、総理になる夢を見ながらも幹事長で終わってしまった。岩に爪を立てて登っている最中のまさに無念の死だった。親父から残りの運を授かったことで、私は総理になれたのかもしれない」
しかし、安倍もまた父と同じ67歳で非業の死を遂げた。「また明日」と、電話口で聞いた安倍の最後の言葉を頭の中で反芻するたびに、今回の事件を防ぎ、安倍の運命を変える手立てはなかったのかと考える。
四十九日法要の8月25日、杜撰な警備体制の問題点が検証結果として報告された。ただ、問題は、地方警察の警備の限界という点だけに集約されるのだろうか。安倍はこれまでにも、自宅に火炎瓶を投げ込まれたり、刃物やガソリンを持った人物が敷地内に侵入するなどの被害に悩まされ続けてきた。こうした事案の真相究明を進めているとは言い難い警察の体質に、折に触れて安倍が不満を口にしていたのも事実だ。
テロや無差別殺人事件が起こる際には必ず“前兆”がある。今回の事件も例外ではない。たしかに組織に属さないローンウルフ型と呼ばれる単独犯は事前に察知するのは難しいとされるが、山上容疑者はSNSで事前に犯行をほのめかしている。
たとえば諸外国が積極的に取り入れている「OSINT」(オープン情報分析)を駆使して、事前に危険性を察知していれば、また違う結果になっていたのではないか。テロの脅威が国際社会で深刻化する中、日本警察の情報分析や警備の遅れが悔やまれてならない。
上司に担当替えを直訴
先にも書いたように、私が安倍の番記者になったのは2002年、官房副長官時代からだ。ちょうど小泉純一郎が北朝鮮を電撃訪問する2カ月前。当時の安倍は対峙しても、こちらを一瞥するだけで多くを語らず、掴みどころのない政治家という印象だった。中々距離が詰まらないことに焦り、上司に「担当を替えてほしい」と直訴したこともある。
取材先から核心情報を入手できるようになることを、業界用語で「刺さる」と表現するが、当時の私には、安倍に「刺さる」ことは到底難しく、取りつく島もない状況だった。
ただ私がかつて法務省を担当し、当時、東京地検特捜部が手掛けていた坂井隆憲議員への捜査の読み筋などで若干の知見を得ていたことに、安倍は興味を示し始めた。それを契機に、少しずつ会話を交わす回数が増えていった。
結局、20年にわたり取材を続けることになったわけだが、膨大な回数の会話を重ねてきた。安倍は一度懐に飛び込むと気さくな素顔を見せる。ともに睡眠時無呼吸症候群に悩まされていた時は(治療機器の)CPAPの操作方法や翌朝の熟睡感などを細かく尋ねてきた。また電話中に突然、地震が起きると「きたきたっ、これはかなり揺れるぞ! そちら、家具は大丈夫?」と実況中継のような反応を見せたりもした。どの場面も鮮明に覚えている。
私が体調を崩して入院や手術などを経た際には「運動量を増やして筋肉をつけないとね」と健康を気遣ったり、最近では、取材で出会ってから20年の歳月が流れたことを懐かしむ言葉を口にすることもあった。そうした折、「岩田さんが私より先に逝ってしまった場合は、葬式を仕切ってあげるから、あまり将来を心配しすぎないほうがいい」と冗談めかして、温かみのある言葉をかけてくれることもあった。
死後多くの人が語っているが、愛嬌のある素朴な人柄が「人間・安倍晋三」の魅力だった。
日々の電話に加え、富ヶ谷の自宅や議員会館、総理公邸……、国内外あらゆる場所で取材を重ねてきた。それは第1次政権退陣後、5年にわたる雌伏の時期も間断なく続いている。そうした取材成果は「NHKスペシャル」や特番に加え、「文藝春秋」で折に触れて伝えてきた。七年八カ月に及ぶ歴代最長政権を築いた安倍の肉声を報じることは、今後の日本政治における重要な判断材料になると考えてのことだ。今回、志半ばで生涯を閉じた安倍の政治人生を書き残すことは、記者としての私の責務だと考え、筆を執ることにした。
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政治外交ジャーナリスト・岩田明子氏による「安倍晋三秘録(1)」全文は、月刊「文藝春秋」2022年10月号と「文藝春秋 電子版」に掲載しています。
暗殺前夜の電話