「勝負の世界に生きる棋士は、どんな困難な局面にも立ち向かうことができる、強靭な精神力の持ち主と思われがちです。しかし、将棋指しは本来弱い人間なんです。私もそうでした。勝つことでしか救われない、何のよりどころもない世界に生きようとする人間たちですから、強いはずがないのです」
そう語るのは、里見香奈女流五冠(30)の師匠、森雞二九段(76)である。
「里見はかつて、体調不良から将棋を指せなくなった時期があり、10カ月にわたり女流棋戦と奨励会を休場しました。私はそのとき、一切詮索せず、静観することに決めました。当時、多くの将棋ファンや関係者から『里見香奈はどうしたのか』『大丈夫なのか』と、どこへ行っても聞かれましたよ。私はひたすら平静を装い『大丈夫です。心配ありません』と答え続けました」
里見五冠は奨励会員時代の2013年12月、女性として初めて三段に昇段。「女性初の棋士誕生」の期待が高まったものの、翌年4月より始まる第55回三段リーグを前に、体調不良による休場を表明している。タイトルを保持していた一部の女流棋戦の防衛戦には出場したが、三段リーグは3期(1期は半年間)の欠場となった。その結果、里見の三段リーグ初参加は23歳にずれ込んだ。
原則として「26歳で退会」という年齢制限がある奨励会において、この休場は少なからぬ意味を持ったはずである。
森九段はなぜ、弟子に干渉することを避けたのか。
「当時の里見の体調不良は、心因性のものであると私は感じ取っていました。もしそうであった場合、師匠が精神的なケアをしたところで、弟子の苦悩を簡単に排除することはできません。なぜそれが分かるかと言えば、私も三段時代、同じような経験をしているからです。こういうときは、本人が将棋を指せるようになるまで周囲はただ静かに待つ。この一手なんです」
「死のうと思いました。そのときは本気でした」
森九段が将棋のルールを覚えたのは16歳、高校1年生のとき。そこからわずか3年でプロの一歩手前である奨励会三段まで上がったという逸話は、棋界に伝わるさまざまな「森伝説」のなかでも特殊な輝きを放っている。
大山康晴、中原誠、羽生善治、谷川浩司、渡辺明、そして藤井聡太に至る、時代を代表する棋士たちは例外なく幼少期に将棋を覚え、10代半ばまでにプロ棋士となり、スターダムを駆け上がっている。
高校生になってから駒の動かし方を覚え、そこからプロを目指すということ自体が異例中の異例だが、超がつく出遅れにもかかわらず、その後A級棋士として活躍し、さらにタイトルも獲得したような棋士は、長い将棋界の歴史を見渡しても森九段のほかに例がない。
その森九段も、三段リーグでは2年半の足踏みを余儀なくされた。1967(昭和42)年の前期リーグ(現在の三段リーグの前身)では、負けたら二段に降段という危機に直面する。将来を悲観した森三段(当時)は、将棋に負けた日の夜、中央線に乗り西に向かった。
「死のうと思いました。そのときは本気でした」
青梅線の終点・奥多摩駅で降り、夜の奥多摩湖の前に立った。柵から身を乗り出したとき、湖面に反射する光を感じ夜空を見上げた。夜空に輝く満点の星に神秘を感じたとき、死への衝動は消滅していったという。