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「誤解のないように申し上げておきますが、里見がうつ病だったということではなく、あくまで私自身の話です。ただどんなケースであっても、棋士は自分自身の力で苦しみから脱出しなければならない。どんなに励まされ、慰められても、それで将棋が勝てるようになるわけではないのです。私は、当時の里見に一切、接触しないようにしましたが、それが正しかったことは、彼女自身が証明してくれたと思います」

 棋士を目指す若者にとって、プロになれるかどうかはひとつの大きな関門である。しかし、晴れて四段になれたとしても、そこから新たな苦悩が生じることもある。

森九段(右)と中原十六世名人が戦った1978年の名人戦第1局

 プロ入り後の森九段は、順調に昇級を重ね順位戦A級に到達。1978年には名人戦に挑戦者として登場したものの、悲願の名人を獲ることはできなかった。

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「名人位は、当時将棋界で唯一無二の、最高のタイトルでした。すべての棋士が、たった1人しかいない名人を目指して将棋を指しているわけです。私はかつて、プロ棋士になれるかどうかで悩んだわけですが、自分は結局、名人になれないかもしれないと感じたときの苦悩のほうが、はるかに大きかった気がします」

 森九段は、同時代のライバルであった中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖、加藤一二三九段らと、内心を語り合った経験はないという。

「ひふみん」の愛称で親しまれる加藤一二三九段 ©文藝春秋

「米長さん、加藤さんも、人には語らないけれども、名人を獲るまでは何らかの苦悩があったと思いますよ(両者とも名人を1期獲得)。ただ、親しかった先輩棋士の芹沢博文九段(故人)からは、何度となく『名人になりたかった』と本音を打ち明けられました」

「里見の挑戦は、なぜ将棋を指すのかという根源的な問いにつながる」

 24歳の若さでA級八段に昇段した芹沢は、次世代の将棋界をリードする「天才棋士」として期待された逸材だった。だが、わずか2期でA級から陥落した後は、中原、米長の台頭もあり、タイトル戦線で活躍することはできなかった。芹沢は51歳の若さで他界している。

「芹沢さんは生前、『四段になって満足している奴はいらねえ』と言っていました。四段で満足する棋士はいないでしょうし、里見も棋士になること自体が最終目標ではないはずです。競争社会を生き抜くことは、常に苦しみをともなうものですが、強くなればなるほど違う風景も見えてくる。いずれにせよ、今回の経験は里見の棋士生活における大きな財産になると思います」

芹沢博文九段(左) ©弦巻勝

 2017年に引退した森九段。半世紀近くに及んだ棋士生活のなかで、大きな影響を受けた人物について語った。

「里見の挑戦は、なぜ将棋を指すのかという根源的な問いにつながります。女流棋界の第一人者としての地位をすでに確立している彼女が、どうして編入試験に挑戦するのか。そのことを思うとき、私は人生のなかでもっとも強い影響を受けた先輩棋士、山田道美先生(九段、故人)のことを思い出すのです」